2015年6月15日月曜日

レシピを聞く人の話。相手の技術に対して敬意を欠く態度。無自覚の罪。

レストラン、飲食店でたまに耳にすることがある。気になる言葉がある。

「これ、どうやって作るんですか?」
「スパイスなに入れているんですか?」
「炒め具合の止めどころと出汁を入れるタイミングってどんな具合でしょう?」

こういうことを調理人に罪なく聞く人が多い。
正直に言おう。こういう質問にまともに答えている調理人は、いない。

当たり前だと思う。
それは彼らの生活の糧になるものだからだ。彼らはそれを何年、何十年もの時間をかけて学び、自分のものとして作り上げてきた魂こもる大事なものだ。

たとえば、だ。
陳健一さん、ナイル善己さん、落合努さん。みんな雑誌や本にレシピを出している。だったら聞いてもいいじゃない。そう思う人はその掲載されているレシピ通り作るといいと思う。どういう風にやっても四川飯店やナイルレストラン、ラ・ベットラの味にはならないはずだ。
そのことを、ひどいじゃないか、サギだ、と言うだろうか。
シェフが悪いのではない。あなたが悪いのだ。例えばあなたの家庭用の厨房機器、それでは火力がまったく足りない。その安いフライパンの薄さではきちんとした火のコントロールができない。同じものを揃えたあなた、今度は残念、腕と修行期間が足りていない。彼らと同じく数十年間プロの現場にいたことのないあなたでは色々な部分でどうしても差が出てくる。
そこを鑑みて、それを踏まえてシェフたちは簡略なレシピをあなたの腕と厨房機器に合わせて書いてくれているのだ。それでも同じレシピを欲しい?ではそれなりの敬意と支払いを、シェフたちに。
数十年かけて自分のものにしたレシピの対価をちゃんと払うのだ、聞いた人は。莫大な金額になるだろう。当たり前だよね。

それとレシピ本。意味がないわけではない。ただ、そのままそれを作るのか、咀嚼や研究をそこを起点としてやってみるのか、やらないのか。そのことがあなたの本棚に眠る何冊もの良心的なレシピ本を活かすか殺すかを決めるのだ。

あなたは何のジャンルのプロフェッショナルなのだろうか。そのプロフェッショナルな世界にまったく関係のない人がやってきて「あなたのその技術、すごいね。私にもできるようにこの場で教えて」と罪ない瞳で言われたときに、あなたはどうするだろうか。

2015年6月13日土曜日

お弁当箱とキュレーションメディア。

キュレーションメディアとかなんとかが台頭している。そいつはいったいなにだろう。
わたしが思い出すのは空のお弁当箱や重箱みたいなものだ。
空の重箱じゃあ腹いっぱいにはならない。空のお弁当箱をよこされても人は喜ばない。
大事なのは何が入っているかということで、その何ってのはうまい煮物だったり気の利いた漬物だったり香ばしい魚の焼き物だったり。
図書館も同じだ。空の書架が延々並んでいるだけでは図書館は機能しない。たくさんの本があるから行ってみようかな、と思うのだ。

それがコンテンツ。

中身を入れてもそれがうまくなきゃ誰も食いつかないし、誰も見向きもしない。重箱を作る職人は尊ぶべき存在で、しかし重箱が生きるも死ぬも板前の仕事の範囲の中なわけで。少しは板前の取り分を考えてやらにゃあ重箱なんぞ埃をかぶって忘れられるだけだ。本来中身ありきの器であるはずだ。

ゆめゆめ忘れるなかれ。
大事なのはコンテンツメーカーで、それに食わせてもらっている感謝を忘れたらそれはもう先がない。みんな見ているといいよ。転ぶ奴がどう転ぶかを。勉強になるはずだ。
いくら閲覧数を増やしたとしても中身のない場所やオリジナルにこだわらない場所は廃れていく。みてくれで10万ビュー/日、などあったとしても、閲覧者の質が下がれば廃れたも同然だ。同じく質の低い閲覧者を集めてそこで搾取するという商売も感心しない。長く事業を続けようという意思がみられないのはどうにもやるせなさと荒寥とした気持ちをおぼえずにいられない。

だから、逆にわたしは心あるキュレーションメディアは一括りにせず、ちゃんと応援する用意がある。ただ見ればわかるのだ。そこがよい場所かそうではないか。


2015年6月8日月曜日

あの店を雑誌取材で取り上げた。

あの店を雑誌取材で取り上げた。あっちのあの店も取り上げた。



直接言われたことはないが、空気やら、なんやかやはなんとなく伝わるものだ。
わたしは最近マニアに疎ましく思われているような感がある。そんな気がしている。
逆にそんなことを思うことこそが奢りだ、とも言われそうだが、あえてこんなことを書いておこうと思った。

あの店、は錦糸町にあるちょっと変わった店だ。南アジアの国の人が日本で働く同胞めがけて料理を作り、外国人コミュニティのクラブハウスとして機能しているような店。以前はそうだった。今もそうなんじゃないかな。
このあいだ取材に行って外国人のお客に聞いてみたら以前は同国人のお客が多く、今ではそれが逆転して日本人客の方が多くなっているようだ。

さて、これはいいことなのだろうか、そうではないのだろうか。
大変難しい問いだと、自分でも思う。

カレーやアジアエスニックフードのマニアはきっとこういう店をそっとしておいて欲しいと思うだろう。彼らはその希少性や日本ではおおよそ食べられないであろう味をその雰囲気とともに味わうのだ。それはとても楽しいことで、わたしもそういうニュアンスで食べに行くのが大好きだ。ちょっとした旅のようなものだ。そういう体験が出来る。

そうは言いながら、例えばわたしのような立場の人間が取材に入る。メディアに流れたその情報はマニアの括りよりもう少し幅の広い層に伝わり、広がる。結果日本人が多くなり、日本人顧客に向けたメニューや日本語でのやり取りが増えて行き、異国情緒のようなものは消えて行くだろう。店主の日本語もずいぶん達者になった。残念な話だ。マニアにとっての価値はなくなり、また新しい、日本人が入りづらそうな面白い店を探す巡礼の旅が始まる。

さて、ここでフォーカスを動かしてみる。
ここまでの話は全て顧客側からの話、目線だ。お店は、南アジアの店のオーナーやコックはどう思っているのだろうか。
これはその店の彼らに直接聞いたわけではないのだが、この店ではない同じく南アジア料理の店を経営するわたしの友人から聞いた話などからの想像だ。


店とはなんだろう。

店をやっている店主たちには店や商売に対してのそれぞれの想いがあると思う。が、それとは別に日本人だ外国人だは関係なく、同じくするものもあるはずだ。

「店というのは存続し続けるべきもの」

ということだ。
つまり、永続性を持ち、もっと言えばちゃんと儲かって国に家を建てたり両親に楽してもらったり、自分は日本でいい暮らしをしたり将来は国に帰って稼いだ資産で豊かに暮らしていく、そんな想いが共通してあるはずだ。顧客に料理やサービスを提供することとは別に、店を回してそれを着地させたい地点、目標があるはずだ。なにより儲からなくて借金だけがかさむ、自分のメシが食えない、なんていうことを望む店主は一人もいないはずなのだ。儲かって、繁盛してなんぼだ。考えて欲しい、あなたの商売。給料が出なくていいのか?タダ働きで大丈夫か、あなたは?

そういうことだ。

彼らは商売をしている。商売だから儲かるのが一番。そしてもちろん客を選ぶ、その権利は店にある。そう、店は客を選ぶ権利を持っているのだ。お客様は神様ではない。すべてに門戸を開く必要はまったくない。が、儲からなければつぶれてしまうのも事実だ。そこで店主は考える。取材で来客が増えるがその内容はどうなのか。それとその来客でどれくらいの売り上げが見込めるのか。正確な数字などは出るわけもないのだが、やはり考える。そして決めるのだ、自分の意思で。
ここまでかっちり考えなくとも体が、経験が判断する。どんな国のメシ屋の店主でも同じだ。取材に乗るも乗らぬも最終的には店主が自分の責任で決める。明るい未来を夢見て選ぶのだ。

そして客だ。
客は客。こう言ってはなんだが客が一人、へそを曲げたからといって、店は動かない。しつこくインターネットを使って絡むような輩はなおのこと無視をされる。当たり前だ。なぜならそういう客が毎週やってきて一晩で10万円づつ落として行ってくれたことがあっただろうか、そんなことはありはしない。そしてあなたにはそれができるだろうか。わたしにはできない。できないけれど、大事に思っている店だ。存続してもらえるのが何よりも大事だ。店主とも仲良くなった。彼が事業に失敗してうつむいたままこの国を出て行くのを見るのは忍びない。

彼らの笑顔が見たい。そして彼らの作った食べ物をなるべく長い間食べに通いたいのだ。だからわたしはメディアを使う。皆さんの力を借りる。そうやって長く付き合える店を応援していけば、仲良く、ずっと応援し続ければいいと思っている。
どうしてもあなたが昔のあの味を食べたくなったときに、今はメニューから落ちてしまったそれを店主に頼みこんで作ってもらうこともできるだろう。そんなことも彼らがきちんと成功してこの国に根をおろしてくれてのことなのだ。

自分だけの秘密にして、未だ日本人の入りにくい異国情緒たっぷりの店。そっと誰にも言わずに月に一回通っていたその店がある日閉店の告知を張り出す。大事な店がなくなることを嘆き、最後の営業日に出かけて行って別れを惜しみ、たっぷり奮発して1万円使う。そんなことになんの意味があるのだろうか。ちゃんと自分の好きな店に形になる恩返しをしていたのか、問うてみたい。店がなくなったあとにどう恩返しをするのか、問うてみたい。

だからわたしは、大事な店はメディアに出てもらって、わたしとその記事を読んで賛同してくださった皆さんと一緒に食事に出かける。応援をする。わたし一人では一晩に5万円ずつ毎週落として行くのは無理だから、このスタイルを選んだ。

すべての店に当てはめられるわけではない。わざと客を絞り、自分の研究や芸術に邁進する店もある。それはそれでいい。それもまた店主が承知でやっていることなのだから。つぶれようが苦しかろうが、彼自身が決めて背負ったのだから自分で尻を拭うのだろう。
コミュニティのクラブハウスとしてやっていきたい店はちゃんと自分たちで線を引いて日本人をオミットする場所、時間を作るだろう。事実そういう場所も未だ多い。そういう場所はまた別の存続法を店主が知っているのでわたしのやり方を当てはめる必要もない。それを知っている店にはそっとじゃまにならぬようにプライベートで出かけていく。

わたしには大事にしたい店がたくさんある。わたしのやり方は、これ。
明日からもこうやっていく。