2015年6月13日土曜日

お弁当箱とキュレーションメディア。

キュレーションメディアとかなんとかが台頭している。そいつはいったいなにだろう。
わたしが思い出すのは空のお弁当箱や重箱みたいなものだ。
空の重箱じゃあ腹いっぱいにはならない。空のお弁当箱をよこされても人は喜ばない。
大事なのは何が入っているかということで、その何ってのはうまい煮物だったり気の利いた漬物だったり香ばしい魚の焼き物だったり。
図書館も同じだ。空の書架が延々並んでいるだけでは図書館は機能しない。たくさんの本があるから行ってみようかな、と思うのだ。

それがコンテンツ。

中身を入れてもそれがうまくなきゃ誰も食いつかないし、誰も見向きもしない。重箱を作る職人は尊ぶべき存在で、しかし重箱が生きるも死ぬも板前の仕事の範囲の中なわけで。少しは板前の取り分を考えてやらにゃあ重箱なんぞ埃をかぶって忘れられるだけだ。本来中身ありきの器であるはずだ。

ゆめゆめ忘れるなかれ。
大事なのはコンテンツメーカーで、それに食わせてもらっている感謝を忘れたらそれはもう先がない。みんな見ているといいよ。転ぶ奴がどう転ぶかを。勉強になるはずだ。
いくら閲覧数を増やしたとしても中身のない場所やオリジナルにこだわらない場所は廃れていく。みてくれで10万ビュー/日、などあったとしても、閲覧者の質が下がれば廃れたも同然だ。同じく質の低い閲覧者を集めてそこで搾取するという商売も感心しない。長く事業を続けようという意思がみられないのはどうにもやるせなさと荒寥とした気持ちをおぼえずにいられない。

だから、逆にわたしは心あるキュレーションメディアは一括りにせず、ちゃんと応援する用意がある。ただ見ればわかるのだ。そこがよい場所かそうではないか。


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