2014年7月12日土曜日

レストランの食事の金額、の話し。お財布と価値観と。

店に行って食事をして。そのお値段の話し。


高い、安い、という人がいる。意識もしていないし罪なく言っているのだろうとも思う。街を歩いているとそんな声も聞こえて来たりする。他愛のないものだ。
インターネット上でそれを書く人もいる。そうなると少しニュアンスが違ってくる。なぜだろう。

インターネットは匿名が横行しており顔が見えないから、だろうか。街でそういう声が聞こえて来てもそちらを振り向けばそこに言葉を発した顔があり、意図がわかる。ホッとする。ネットではそれがない。ただ言葉だけがあり、そこに残されていた言葉だけがひとり歩きを始める。いくら相手の立場に立とうとしてみても、顔が見えないとそれが出来ない。ただ言葉だけがある。

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値段の話し、基準というのはどこにあるだろう。簡単だ。他愛のない会話のなかに出てきた高い、安いはただ、その人のバッグのなかにある財布の中身。たったそれだけが基準だろう。それでいい。

ただ価値、価格あたりの値(あたい)というのはそういう場所にあるものではない。
この話しはたまたま食事の値段という話しだが、他のあらゆるものについている値段の、その導き出された理由に依る。
食べ物だったら簡単だ。素材と物流と周辺コスト。それに板前さんの技術料だ。腑分けするのは簡単だ。が、そう簡単にいかないのが人の気持ち。振り返ってみればいい。自分の仕事の価値、その対価としての取り分。思いを込めた仕事。単純な金額では計れない。ひとのからだに入ってゆく食べ物を扱う商売の人たちはその思いもひとしおだろう。

単純に自分のお財布の中身だけで高い安いを口にしてしまうのは少しこわいことだ。
安ければ良いのか?300円の価値は人それぞれだ。が、300円で一食が済んでしまう不思議さ、異常さは気に留めておいた方がいいのではないか、と思う。駅前の店でその金額で食べられる食事と同じものを自宅で手をかけて作ってみればよくわかると思う。

なぜだかインターネットには匿名での行動という麻薬のようなチョイスができる。普段、会社や街で気をつけていることが気をつけられなくなる。おかしな中毒性があるのだ。きちんとニュアンスが伝えられない場所で、そんな場所であるにもかかわらずますます暴言を吐く人々。
親しい人との屈託ない会話なら、心通じる前提での軽口も楽しかろう。しかし自分を離れてしまったネットの上での言葉は、不特定多数の人の心には残念ながら伝わらない。

安いのにはわけがあり、高いものに理由がある。すべての事象には理由があるのだ。
それを気に留められるか否かで、なぜだろう、というものの考え方の根幹があれば、日々や人生さえも変わるのではないだろうか。

価格の価値はあなたの財布の厚みで変わるものではない。
そして、どうにも食べログは、苦手なのだ。

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