2016年11月30日水曜日

知りあいの女性の死。

ひどく心を乱されることがいくつか続いた。
そんな中で特に心を乱されたのが、顔を知っている女性が死んだことだった。
病気だったそうだ。闘病のことをわたしは知らなかった。

二本の足でしっかりと、しかしスーッと立っていて、強さと美しさを併せ持っていて、キリッとしていて。こちらの心を見透かされそうで。
わたしのような男は彼女の前に立つといつでもきまりが悪くて目を合わせられなかった。 尻尾が両の足の間に入ってしまうような居心地の悪さと憧れがいつでも腹のなかに共存していて不思議な気持ちだった。

しばらく前に彼女の息子が結婚をした。その息子というのはわたしの友人だ。つまり彼女は年下のわたしの友人の母である。その結婚式に出かけたわたしはそこで彼女を見かけている。主賓の家族となれば話しかけることもままならぬまま、でも晴れやかな笑顔をうかがうことが出来た。

それっきりとなってしまった。

初めの頃、わたしの友人の母親だから関係としてお母さんと呼んだが、それが面白くなかったのか、美しい柳眉を逆立ててその呼び方はやめなさい。名前を呼んで、と言われた。そういうところも素敵だな、と思っていた。
彼女のご主人はまるで哲学者のような男性で、その瞳をまっすぐ見ながら話を聞いているとどこか別の場所に連れて行かれそうな気分になる。深い瞳と広い心を持つ紳士だ。こういうスケール大きな男性を支えていた彼女。男だからわかるのだ。ご主人の痛みが。さぞお辛いことだろう。こちらの胸まで押しつぶされそうになる。

なぜだろうか。それほど彼女と長く親しく話をしたわけでもないのだが、涙がこぼれた。きっと動揺しているから、の涙なのだろう。が、それを彼女に捧げることは悪いことではない。そう思った。

深夜の九十九里のそばでそんな知らせのメッセージを友人からもらい、しばらくいろいろなことを考えた。夜の車の中でこの知らせを聞けて、色々なふうに心が動いた。その心の動きは大事なものだと思った。

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