わたしは食べることが仕事になっている。正確には「食べて、その食そのものとその周辺について感じ、そしてそれを書く」というものだと思っている。それはつまり食事が仕事であるということだ。今年の夏で51歳になったわたしは日々考える。
"お腹がすいた、なにか食べよう。
そういえばなにかSNSを動かしてやらねばな。
じゃあカレーを食べようか。
本当はいい季節なので旨い秋刀魚でも焼きたいなあ。
でもそれほど長くはない自分の残り時間でカレーじゃないものを食べていて大丈夫なのか。”
そういう、角度を少し変えると精神を病んでいるような考え方にとらわれることがある。
ちょっと話しは飛ぶが、30年ほど前の恋人の話しだ。
長距離恋愛だった。彼女は静岡県の焼津市に住んでいた。雑貨の貿易の関係で知り合った女性だ。とんがっていてファッションやカルチャーに敏感で、いつでも先を、尖ったものを見続けているような人だった。そういう彼女がかっこよくてとても好きだった。
ある日彼女はわたしにこういった。
「あなたは東京に住んでいる。朝になれば美術展がが開門する。19時の時報と共に東京中の劇場が幕を開ける。東京に住んでいるあなたはなぜそこに駆けつけないの?」
彼女の気持ちがとてもよくわかった。胸が痛んだ。返事は返せないままだった。
東京に住んでいるわたしは「選ばれた人間」なのだ。大きな苦労をせずにいろいろなものを生まれた時から掴んでいる、幸運な一握りの人間。そう見えていたのだろう。東京に生まれて住むというのはそういうことだったようだ。たった30年前の話しだ。
東京に住んでいるわたしは「選ばれた人間」なのだ。大きな苦労をせずにいろいろなものを生まれた時から掴んでいる、幸運な一握りの人間。そう見えていたのだろう。東京に生まれて住むというのはそういうことだったようだ。たった30年前の話しだ。
そのあとしばらくして彼女は東京を通り越してアメリカ、ニューヨークに飛んだ。帰ってきた噂は聞いていない。
飢餓感や、環境があるのに動かないものへの怒り、理解しがたい気持ち。そうなのだ。彼女は得ようとしても得られないまま憤怒と憧れの気持ちを抑えずに、わたしを通り越してもっと刺激的で得られるものがあると確信した場所へ向かったのだ。説得する力、止める力を持たない当時のわたしはただただ、呆然と見送るだけだった。
なぜそんな話しをしたのか。
飢餓感と焦り、か。
こと食に関して、それはフィジカルなものにも繋がり、素直であり続ければいいと自分でうそぶいている。が、しかし実際はこの有様だ。生き物には時間が決まっているという代え難い事実があり、その中で特に人間はこんなことでくよくよ悩んだり考え込んだり座り込んでしまったりを繰り返す。
素直でいいのだ。近所の定食屋に行って冷やし中華でもしょうが焼き定食でも食べればいいだけなのだ。しかしいつでも「カレーじゃなくていいのか」はつきまとう。そんな毎日だ。
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