2014年9月20日土曜日

賄い飯のないレストラン。

聞いたところによるとチェーンレストランの大手のいくつかは賄い飯がないのだそうだ。誠に現代風で、まあそうだろうな、と思うところある。が、真逆にそれはどうなのだろう、と思うところもある。

飲食の現場は戦争だ。戦いだ。厨房内の作業、調理は重労働で危険も多い。汗も冷や汗もかくことの多い現場だ。ホール業務もお客と接する真剣な現場で神経がすり減るものだ。どちらも同じく大変なのだ。
そういう中、賄い飯という素晴らしいものがあると励みになることは、少し考えれば理解できるだろう。

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ただメシを食らう、という行為とは少しニュアンスが違うのが賄い飯だ。それは研鑽の場でもある。新人の、皿洗いをそろそろ卒業するようなコックの見習いがここまで密かに勉強し、先輩の技を盗み取り、誰に言われるともなくやってきた調理の練習の成果を先輩諸氏に審判を受けるという場所なのだ。
あり合わせでかつ使っても支障のない材料を考え、アイディアを出し、時間を気にしながら作り上げて食べてもらい、そして指導を受ける。大切な修業の場所だ。
これがなければわざわざ研修場所を別で作らねばならず、また、はい研修です、でやる調理では得られない、尊いものが得られるのだ。

なにしろ先輩方の食事である。緊張感が違う。飲食の現場は皆さんが考えるよりも多少荒っぽい場所だ。立ち仕事で、くたくたになるまで働く現場での唯一の楽しみの時間。そのメインたる食事がうまくなければ現場の空気さえこわしてしまうことになりかねぬ。慎重に、真剣に、そして手早く。それが日々続いて研鑽となる。相手があっての自分の料理、という意識も生まれてくる。大変に大事なことだと思う。

飲食に従事するものも、また飲食ではなくとも自らそういう伝統、決まりがある場所を選んで働くことは尊い。
ただ日々マニュアルを見て手を動かすのではなく、自分で考え、動き、それを積んで店でも会社でもない、自分の経験、蓄積としていく、それができる場所を自分でえらぶのだ。そこで得たものは、まぎれもなく自分のものになる。

チェーンだ大手だではムリもあるかもしれない。が、大手だチェーンだ、だからこそ、自分の市場を育てることをせねばいけないのではないだろうか。資源は取り尽くしたらおしまいだ。企業は、社会は文化の上に成り立っている。その文化を自分たちで守り育てないと息の長い商売は出来ないのではないだろうか。商売というスケールではない。食の話しは人としての存亡というところまで考えてもいい話しではないかな、と思うところがある。

2014年8月17日日曜日

ジェット☆ダイスケ氏の著書「YouTubeで食べていく」を読んだ。おもしろかった。

なかなかおもしろい本だった。



彼が書いているのは本人から聞いていたのだが、それを聞いてからずいぶん経ったな、という感がある。少し前にわたしのことも少し織り込みたいのでインタビューを、と言ってもらい、喫茶店でいろいろとしゃべった。わたしの言葉が上手に反映されていたのはうれしかった。



ビデオでのレビューを作ったが、早く直接彼にあって感想を伝えたい。





2014年8月6日水曜日

ScanSnap iX100は違う。今までのスキャナーと違う。この軽やかさはなんだ。

ScanSnap iX100、PFUさんから託されて使っている。もしかするともう手放せなくなるかもしれない、という予感がしている。

前モデルとなるS1100も手元にあるのだが、別物になっていて驚いた。
S1100、iX100ともに小型のハンドヘルドスキャナーといった態で大変に小さい。例えるならペンケースサイズ。デスクトップに置いておくのにまったく苦にならない大きさだ。オートシートフィーダーなしといってもこの小ささは驚異的だ。
実はS1100はわたしと共にスリランカで一ヶ月過ごしてきた相棒だ。旅行にスキャナー?と人に笑われたが、笑い事ではない。ひと月分の暮らしのための荷物、それになりにコンパクトにまとめたつもりだが、そのなかにあって持っていったことをそれこそ忘れてしまいそうなほど小さい。彼の地でのひと月、東京のオフィスと同じ環境を作ろうと考えての持参、もう一台デスクに据え置きしてあるS1300と同等の働きをしてくれた。

そしてそのS1100の後継機たるiX100、同等の外観を持ちながら、中身はまったく違う、コンセプトの違うマシンになっていて驚いたのだ。モバイルスキャナになっていた。
いや、S1100は十分にモバイルスキャナでしょう?そいう言う人も多くいる。わたしもスリランカ行きにモバイルスキャナと考えて持っていった。
そういう気分でS1100を見ていたのだが、iX100を手にしてその思いは吹っ飛んだ。



本物のモバイルスキャナはiX100だ。

iX100にはバッテリーが積まれている。
iX100にはWi-Fiが装備されている。
iX100にはコード類が出先で一切必要ない。完全コードレスなのだ。

驚いた。
スキャナが単体で、コードレスで、ストレスなく動くのだ。この気持ちよさ、軽やかさといったらない。
コンピュータに接続は当たり前なのだがUSBケーブル、Wi-Fi、共に使える。そしてiPhoneやスマートフォン、タブレットにワイヤレスでつなぐことが出来る。これがいい。S1100でもアプリを使ってコンピュータ経由でiPhone等にデータを受け取ることも出来たが、連携の鮮やかさや使い心地はまったく別物だ。

出がけにあわててスキャンしていた資料。時間がなければ出先でその作業をすればいい。

なにがよかったって、あの軽やかさ。
筐体自体の軽さもあるのだが、片手でつかんだ時の掴めてる感。
自動OFFもいい。これはScanSnapシリーズの美点の一つだがカバーを開くと電源が入りスタンバイ状態になる。こういうスピード感も軽やかさ、という感覚に繋がるだろう。

先ほども出がけにちょっと出番があった。
出かけようとして名刺入れに名刺がないことに気がついた。あろうことか30枚以上入るわたしの名刺入れには数日前に行ったトレーディングショーの時にいただいた名刺が満タンに入っている。だから名刺が切れていた。慌ててiX100の全面カバーだけを開いてiPhoneのWi-FiをiX100に切り替え。接続を確認してやおら名刺の束を握り、原稿挿入口に左右、左右と交互に名刺をどんどん入れて行って(名刺サイズなら2枚同時に読み込みができてきちっと切り分けがされる)30数枚をiPhoneの中に片付けた。あとは電車の中でお礼メールを書くだけだ。このスピード感は素晴らしい。
なんだったらそのまま鞄に放り込んでこの日の打ち合わせ後のカフェで資料と名刺をスキャン、即仕事に取りかかることも可能な訳だ。

なになにがどれだけのスピードで動く、というものではなく、運用でのスピード感。
ScanSnap iX100にはそういうものが確実にある。

2014年8月4日月曜日

飲食店の従業員が自店の味を知らない。

驚いた話がある。タイトル通りのことがとあるレストランで起こったのだ。

夜、お腹を空かせて入ったレストランだった。お腹が空きすぎるとメニューを選べなくなる。そんなことが食いしん坊のわたしにはままあるのだ。ここはひとつ、ウェイターくんの意見でも聞いてみるかとオーダーを取りに来た男の子に聞いてみる。

「お腹を空かせているんだよ。なにかお勧めはありますか?」

よどみなくお勧めを教えてくれる彼。
「お勧めは今が旬のXXを使ったこちら。お腹を空かせてらっしゃるそうなのでボリュームのあるこちらもどうですか?」

立て板に水のスマートな接客。うんうんいい感じ。気分がいいね。
さて、どうしようかな、どれに決めようか。そうだ。

「今あげてくれたメニューの中であなたはどれがいちばんスキ?」
「すみません、食べてないんですよ、、、」

あれっ?なにかおかしくないか。彼が自信たっぷりの顔で勧めてくれたあれはなんなのだろう。そう思ってしまった。

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あまりにもあっさりと食べてないことを告白してしまった若い、悪気のないホール担当の男の子にあれこれ突っ込むのも野暮というもの。こめかみに力を入れて「ボリュームのあるのはこちら」と言われたメニューを指差してみた。からだから力が抜けてそれくらいしか出来なかったのだ。
力が抜けたのはもちろん、空腹のせいではなく。

コックたちは当たり前だが試食をする。作って、味見をしてブレをなくしていって。それは、当たり前。
ホールの子たちはどうなのか。ホール担当は最前線だ。お客に直接問われ、口をきき、サービスを行う。こういう大事なポジションの人間が味を知らないのはまことに脆弱だ。前線の塹壕に手ぶらで入るような行為だ。たちまち敵に足下をすくわれる。

オーダーミスや料理を皿の上に完成させた後に半端に残るもの。そういうものをコックはホールの子たちにまわしたりする。美しい伝統だと思う。忙しい時間帯、誰もが疲れてきたり集中力を失いかける時間帯にコックがディシュアップの裏に置いた小さな皿。それをホール担当がほんのわずかなスキを見つけて口に放り込み、急いで味わって飲み込み、またホールに戻る。そこにひらめきやアイディアが宿る。ホールに戻ったウェイターたちはその接客に先ほどのひとくちの味を生かす。そういう流れがあってもいい。
厳しい店なら、いや、こちらが当然であり正解、閉店後、お客が帰ったあとにそういう料理の半端なものや余ってしまって賞味期限が迫るものなどをみんなで食べる。気の効いた店長やホールリーダなどがいれば料理の説明と客にどう勧めればいいのか、説明なども入るだろう。

ところが、どうも最近の大手の大型レストランは管理が行き届いており予算達成が厳しくもあり、ロス管理と銘打ってこういうものを排除する動きがあるそうだ。確かにロスも減るし効率化できる。特に全国展開をするチェーン店などはその効果も大きいだろう。しかしそれで失うものは小さいものなのだろうか。

賄い補助、などという項目を設けて現金支給をしたりxx%引きを出来るようにする店もあるようだ。それは制度としてはいいかもしれない。が、しかしだ。コックや先輩から手渡しされる、仕事の場所でその場で食す料理のパワーは大きなものがあるのだ。現金などではダメだ。何割引もナンセンス。作った人から食べさせてもらう体験は偉大なものだ。作った本人がいて、そのうまさを感謝と共に直接伝える。どう作ったか、なにをこだわったか、すべてその場で、まだ口にその味が残っている間に自分に帰ってくる。
尊いものではないだろうか。

そこでホールの彼らは大きなものを得る。
感動や驚きと共に体験したあの味はこういう想いで作られるのか。それをホールでの接客に活かせはしまいか。素晴らしいスペシャリストの誕生だ。そこまでいってはじめて、つまみ食いが試食に昇華する。昇華するまでを辛抱強く待てるのが強いレストランなのではないか、とそう思う。

昨今、あまりにも杓子定規に白と黒を決着着ける風潮が強まっている。結構だがいきすぎると大変大事なものを失う、取り返しのつかないことになる。そういうことが多い気がしてならない。

2014年8月3日日曜日

動画。「港湾重機」

青海埠頭だったか。港で艀からの鉄骨の陸揚げ作業を見ることが出来た。



手元にはGoProとCanonのコンパクト、S120があった。S120だけを使ってデジタルズームを含めて動画を撮った。

どうも困ったものでコンパクトデジタルカメラの動画撮影機能でこれだけ撮れてしまう。しかも手持ちだ。ブラウザの上でちょいと見るには十分ではないか。



最近のわたしはiPhone5を手元に置いているのは変わらずだが、iPhoneと連携が出来るカメラを持ち歩くようになった。全部iPhoneで済ませられる時期は一旦おさまって、こんどはもう少しカメラらしい画を撮れたりズームや超広角で撮れたりできる、iPhoneでは出来ない部分を持つカメラをiPhoneと連携して使う、というスタイルに落ち着いた。



結局ネットに繋がっていなければという部分があぶり出され、なおかつやはり世の動きと同じく多少は画質も考える、という空気の中にいるのだなあ、と思い知る。





2014年7月21日月曜日

人のサービスを横目で見て我慢できない人。

レストランで特別なサービスを受けることがたまにある。懇意にしているお店の時も、初めて行ったお店の時もある。そういうのはとても嬉しいもので、喜んでその頂き物やサービスを楽しむことにしている。

少し気まずい時があるのも本当のところだ。だって他のテーブルにはそのサービスがいかないのだから。気まずく感じるのはきっと控えめな日本人気質からなのだろう。本来なら堂々としているべきとも思う。なぜか。

例えば私が受けている特別なサービスを羨む人がいる。ずるいと感じたり疎ましく思ったりする人もいるらしい。
少し、おかしい。それと考え足らずだ。

サービスには理由がある。いろいろな理由があるだろう。例えばわたしなら雑誌、ネット、その他メディアなどにお店を紹介差し上げたことがあったり。何度も友人を連れて来たり。お店のお手伝い、物理的なものもそうではないものも含め。

お店のためになにかをしているのだ。

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それがメリットである、とお店の人が判断して、よくしてくれた人にお返しをして差し上げよう、と考えたのだ。
わたし自身がそれ(お店に親切にすること)を意識している時もいない時もある。この際その「わたしの」思考は関係がない。まったくないと言っていい。お店の方が好意を持ってくれている、ということ。たったそれだけだ。たとえばあなたになくてわたしにサービスがあったとしたら、わたしはあなたよりそのお店にとって何かしらを差し上げているのではないか。
逆もそうだ。あなただけになにかしらのサービスがあったとしたらそれは他の人よりもそのお店に何かをして差し上げている。あなたがだ。お店はそう思っている。

それのどこが不公平なのだろう?

「お前だけずるい、不公平だ」はかわいそうだが子供の意見だ。その意見には「なぜなのか?」がない。その事象に対しての思考が停止している。なぜだろう?そう思う力が最終的には人間力を呼び、日々が充実するだろう。例えば、人よりもよくされる、ということかもしれない。

ただもうウマがあう、そういうのもある。人がやっているのだ。あなたも、人だ。

その本に寄稿していないのに献本が来る。レストランにお呼ばれをしてご馳走いただく。(お支払いを希望する時もある。笑顔でご馳走になる時もある)素晴らしいプレゼントをいただくこともある。あなたにだってあるだろう。その時に考えるのだ。なぜこの人はよくしてくれるのだろう。それを考えるのはは容易い。なにせ自分のことだから。
自分に力を付けるなら他人の幸運を見て、あの人はなぜ人に良くされているのか。それを考えるべきだ。
プレゼントを突っ返す、その礼を失した行為も自分の立場でならわかるだろう。なぜ人には当てはめられないのか。

自動販売機に親切にしても何も帰ってこない。その代わり、いつだって、誰にだって、自動販売機は公平だ。それが王様でも子供でも。
店を選ぶか、自動販売機で買うか。選ぶのはあなただ。


追記

これを書いていること自体わたしは恥ずかしく思っている。お世話になっている方々にこんな文章を読まれたくない。が、しかし、いいたいことはこうやってちゃんとある。言わなければならないのが、歯痒いのだ。

2014年7月12日土曜日

レストランの食事の金額、の話し。お財布と価値観と。

店に行って食事をして。そのお値段の話し。


高い、安い、という人がいる。意識もしていないし罪なく言っているのだろうとも思う。街を歩いているとそんな声も聞こえて来たりする。他愛のないものだ。
インターネット上でそれを書く人もいる。そうなると少しニュアンスが違ってくる。なぜだろう。

インターネットは匿名が横行しており顔が見えないから、だろうか。街でそういう声が聞こえて来てもそちらを振り向けばそこに言葉を発した顔があり、意図がわかる。ホッとする。ネットではそれがない。ただ言葉だけがあり、そこに残されていた言葉だけがひとり歩きを始める。いくら相手の立場に立とうとしてみても、顔が見えないとそれが出来ない。ただ言葉だけがある。

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値段の話し、基準というのはどこにあるだろう。簡単だ。他愛のない会話のなかに出てきた高い、安いはただ、その人のバッグのなかにある財布の中身。たったそれだけが基準だろう。それでいい。

ただ価値、価格あたりの値(あたい)というのはそういう場所にあるものではない。
この話しはたまたま食事の値段という話しだが、他のあらゆるものについている値段の、その導き出された理由に依る。
食べ物だったら簡単だ。素材と物流と周辺コスト。それに板前さんの技術料だ。腑分けするのは簡単だ。が、そう簡単にいかないのが人の気持ち。振り返ってみればいい。自分の仕事の価値、その対価としての取り分。思いを込めた仕事。単純な金額では計れない。ひとのからだに入ってゆく食べ物を扱う商売の人たちはその思いもひとしおだろう。

単純に自分のお財布の中身だけで高い安いを口にしてしまうのは少しこわいことだ。
安ければ良いのか?300円の価値は人それぞれだ。が、300円で一食が済んでしまう不思議さ、異常さは気に留めておいた方がいいのではないか、と思う。駅前の店でその金額で食べられる食事と同じものを自宅で手をかけて作ってみればよくわかると思う。

なぜだかインターネットには匿名での行動という麻薬のようなチョイスができる。普段、会社や街で気をつけていることが気をつけられなくなる。おかしな中毒性があるのだ。きちんとニュアンスが伝えられない場所で、そんな場所であるにもかかわらずますます暴言を吐く人々。
親しい人との屈託ない会話なら、心通じる前提での軽口も楽しかろう。しかし自分を離れてしまったネットの上での言葉は、不特定多数の人の心には残念ながら伝わらない。

安いのにはわけがあり、高いものに理由がある。すべての事象には理由があるのだ。
それを気に留められるか否かで、なぜだろう、というものの考え方の根幹があれば、日々や人生さえも変わるのではないだろうか。

価格の価値はあなたの財布の厚みで変わるものではない。
そして、どうにも食べログは、苦手なのだ。

2014年7月7日月曜日

エキサイティングマックス!の原稿の話とレストランを守る自分のエゴと。

月刊男性誌、ぶんか社の「エキサイティングマックス!」に連載を持っている。
いつでも大変に苦しんで書いている。なにを苦しんでいるのか。それは。

それは、必ず「自分の好きな店」「大事に思っている店」を取材先に選ぶから。
そして自分の好きな店の店主がどの店でも「任せた」と言ってくれるから。

私の原稿。取材先、お店には入稿する原稿のチェックはしてもらわない。
住所や営業時間等はもちろんきちんと公式のHPやショップカード等で確認、店主にも最新の情報はどれを見ればいいのか等は取材時に確認をする。そしてそれを編集部でもチェックを入れるという二重チェックのスタイルだ。
そういうなか、よく店主に「雑誌が発売されるまで原稿見せねえからな」など軽口をたたくことがある。するとどこの店主も「いいよ、任せたから」と口を揃える。「なに書いたっていいからさ」と。
さあ、ここからが苦労の始まりだ。

写真はイメージです
なにしろ「任された」わけだ。全幅の信頼をわたしの文章、筆においてくれたわけだ。これは、相当に背に重い。当たり前だが真剣度は針が振り切れるくらいだ。そうやって背負うと、文章が長くなる。何もかも書きたくなるのだ。ところがここからまた地獄が待っている。想いの丈をぶつけた原稿。編集部から規定をもらっている約1200ワードから倍を超えることもままある。それを規定量に削っていく。大変に厳しい作業だ。全体のバランスを見つつ、絶対残したいものを残しながらバランスを保つ。ほとんど書き直しという時もある。ともすれば詰め込みたさが勝つあまりぶっきらぼうな文章になってしまったりもあり、反省の日々だ。
一つの原稿仕事にこれだけ熱を入れて書くのは、生活や仕事という話しから考えれば行き過ぎではあるかもなあ、とも思うこともある。が、やめられない。

話す機会があまりなかったのだが、わたしの文章、ブログや紙媒体、Webメディア、問わずに共通していることがある。これらの飲食店に関する文章は、すべてわたし自身のエゴの元に成り立っている。誤解を恐れず言ってしまえば読者のことなど考えていないのだ。まったく、自分のためだけに書いているのかもしれない。長く書き続けてそういう形になった。

それはなになのか、なぜなのか。

わたしはご存知の通り飲食関係の文章に関してはカレーというテーマに特化して活動している。カレーが好きだ。だからそうしている。単純だ。もちろんほかにも好きなものは多くある。イタリアンも、冷やし中華もたこ焼きも、みんな好きだ。
なぜこうも、二日と空けずにブログを書くのか。なぜ月刊誌にカレーで連載まで持たせてもらっているのか。これは、わたしのエゴなのだ。

大好きな飲食店がある。たくさんある。どこも好きで、うまくって、店主はいい人で、思うたびにたまらない。が、しかし。飲食業はなかなかむつかしい。うまいだけじゃだめだし、人柄だけじゃないし、近所にある大企業が移転することだってあるし。そうやって飲食店がなくなる。わたしの大好きな店が、なくなる。それは耐えがたいことだ。あの素晴らしかった代々木のスパゲッティの店「くじゃくの舌」スリランカカレーのブッフェでサンボルだってきちんとあった練馬の「ディヤダハラ」西荻窪の落ち着ける欧風カレーの店「トラトラ」。
なくなってしまったあの店やこの店が浮かんでは消える。

たとえばあのとき、もっと通っていればあの店はなくならなかったのか。もっとがんばって通っていれば。しかし、現実問題、その大好きな店に毎日通って毎日1万円づつ落とすのはまったくもって現実的ではない。そこではたと気がついたのだ。自分だけで応援をやる必要はない。他の人の財布にも協力を求めよう、と。
そうやってブログで、メディアで、好きな店を紹介してゆく。結果、店は潤い、何らかの形で続いてくれる。そういうサイクルが出来れば、と常に思っている。そう、それはエゴなのだ。しかしそのエゴで不幸せになる人もいないはずなのだ。わたしはきちんといい店しか紹介しないし、そのいい店の基準を味だけ、値段だけには決してしない。そこでなにが起こってなにが楽しかったのか。体験を伝えたいのだ。味は当てにならない。人間の舌は、経験は千差万別で100人いたら100通りのおいしい、がある。それを伝えるのは至難の業だ。なので、体験を伝える。どう楽しむか、を伝える。どう感激したかを伝える。そういう風にいつもありたい、そう思っている。

未だ志し半ばだし、わたしの力、影響力なぞたかが知れている。わたしを知っている人はこれを読んで「いや、影響力大きいじゃない」と言ってくれる人も多いだろう。もう一度いう。わたしの影響力なぞたかが知れている。狭い範囲での、わたしなのだ。カレーなのだ。だから、大きな力を持ちそうなチームに参加してみたり、カレー好き、外食好きとは違うジャンルの人たちにリーチをかけようと、もがく。

外食は、楽しいのだ。得るものも多いのだ。それを伝えたい。
ただ外で食事をする、それだけの行為ではないというのを伝えたい。そんなの知ってるよ、という人はいい、これを読まなくても。きっと幸福な外食生活を送っているのだろうから。みっともなくてもなんでもいいから人との繋がり、気持ちのやり取り、そういうものを大きく内包する外食というものを、ちょっとでも後ろから踏ん張って押してやりたいといつでも思っているのだ。

そうやって、毎日カレーを食べている。


2014年6月27日金曜日

ポートレイト写真を撮る楽しみを知った。弓月ひろみさんを撮った。

ポートレイト写真を撮る楽しみを知った。
弓月ひろみさんに教えてもらった。とても素晴らしいモデルさんだ。
純粋なポートレートとは少し違うのかな。教えてもらえたこと、多かったな。

ある日彼女から連絡をもらって「写真を撮って欲しい」といわれた。
なんだろう、と思った。聞けばホームページのリニュアルをするそうで、それに使う写真をいろいろな人に撮ってもらう、というコンセプトを立てたそう。なるほど、美女のお願い、もちろんお手伝いいたしましょう。


浅草を撮影場所に選んだ。選んだのだが、なかなか難しかった。ポートレートを撮るわけだが、外でのポートレート、自分のメンタリティではむずかしい、と感じた。なんと説明していいのかな。広い、いや、開かれた空間だと集中しにくいというか、なんというか。


はじめは雷門あたりで待ち合わせをして銀座線の改札の隅にある小さな地下街でしばらく写真を撮った。モノクロで撮った。これは自分の趣味が多分にはいっている。悪くはなかったのだがもう一つしっくり来ない。
一旦古い喫茶店に入っておしゃべりをひとしきり。のち、撮影再開。
新仲見世や六区あたりをぶらぶら、花やしきのあたりに来たのだがどうもこれという画が撮れない。だんだん冷や汗が出てくる。楽しいデートで終わっちまったらいかん。役に立てず、で終わってしまう。それじゃいかんのだ。そうやって焦りも出て来たところで

「アンヂェラス」

に入ってみようか、という話になった。
アンヂェラスは古い古い喫茶店だ。ヨーロッパの山小屋風の外観とレモンパイというクラシックなケーキが名物。永井荷風や池波正太郎らが通った店としても知られる歴史のある店。気に入っている。ただし人気店でいつでもどうにも混んでいる。そう思っていたのだが、ちょうど潮目、凪の時間だった様子で二階の階段下の席に着いて早々に他の客がどんどん引いて行った。


焦りも何もあったのだが、とりあえずお茶にして、また四方山話。恋愛話や食べ物、旅行の話し。他愛のない話し。古い喫茶店の暗めの照明と独特の空気が距離を縮めてくれる。
そういうのを続けながら手元では幾つか持ってきたカメラを持ち替えて、ダイヤルをまわして。何枚かづつ写真を撮ってはまた考え。すると、どうにもこの店の照明の色や光の加減、色々な要素がうまくバランスするポイントが見えてきた。
心なしか彼女との距離も縮まりリズムも出てきた感がある。外と違って狭い席の距離感、親密感が背中を押してくれるからなのか。あっと思ったらいい写真が撮れていて、驚いた。

どうやらなにかのしっぽをふわりとつかまえたらしい。自分自身もやっと彼女がどう撮って欲しいのか、どう撮られたいのかのツボが見え隠れする所が分かってきた。心なしか、エロティックさがモニターにそろりと乗って来ている感もある。手応えがあった。よし、もう少し。もう少しスカートの裾をあげてもらおう。

そうやって素人なり、自分なりの撮影を終えた。なんとなくわかったのはカメラではなく、腕前でもなく(これはまた別の話しなのだが)、コミュニケーションなのではないか、ということ。
会話の中からどういう写真を得たいのかを探り出し、表情の変化や言葉のニュアンスを一所懸命咀嚼などして。おだて、すかし、おどし、笑わせ、なんとしても表情を引っ張り出したり、逆になにもせずに、そっとそのままの表情を空気の如く気配を消して拾い上げていったり。

そのやりとりから生まれてくる写真の面白いこと。
人前に立ち、カメラのフラッシュを受けることを仕事とする彼女にとってわたし程度の写真では不満も多かろうし、随分枚数を撮った中で使えるものは数える程であろう。が、わたしにとってはなかなか得るものが多い面白い撮影だったのだ。


何年か前、なのだがスタイリストの神様のような人、高橋靖子さんがパーティーに誘ってくれたことがあった。知人もほとんどいないタフなパーティーであったが楽しかった。
そのさなか、キヤノンのiXYの小さなボディを両手で抱え、包み込んでヤッコさんの横顔15センチに近づいて写真を撮り続ける一人の男性を見た。
面白いなあ、近いなあ、と思いながら眺めていた。その後かの男性とカメラ談義をした。たわいもない話だったのだが、後になって色々考えると、どう考えても不勉強なわたしですら知っているレベルの有名な写真家だったようなのだ。そう、T-REXやデビッドボウイを撮っていた人、だ。部屋に帰ってたくさんの冷や汗をかいた。
そのキツイ思いの中で考え至ったのが「機械ではない」ということ。彼があの日撮ったヤッコさんのポートレートを見たわけではないが、確信として言えるのはいい写真をたくさん撮っていたのであろうこと。コミュニケーションが出来ていたからこそ、信頼関係があったからこそあそこまで寄って、どんどんシャッターを落としていけていたのだなあ、ということ。

弓月ひろみさんとそういう関係を築けたか。はなはだ疑問ではある。しかしその一瞬、なにかを掴みかけた、いや、掴んだことは確かだった。そういう気がしている。


面白い。やっぱり写真は面白い。
カメラじゃなく、写真は面白いんだ。

人はおもしろいんだ。



2014年6月19日木曜日

「臨時休業」(仕込みまにあわず)は健康的だと思う、という話し。

飲食店で「臨時休業」(仕込みまにあわず)という張り紙を見ることがある。
Facebook等で知ることも多いのだけれど。
売れた。予想以上に売れた。なのでストック、仕込み済みが底をつく。
物理的に営業は無理だ。帳尻合わせでは営業できない。仕方ないので一旦店を閉める。

健康的である、と思う。

ニッポンのレストラン、大手の資本が入ったところなどが特にそうなのだが、素晴らしいこととしてやっていたことが、どこかでボタンを掛け違えておかしなこと、不健康ことになってしまっているかもしれないなあ、と思うところがある。

ニッポンのレストランはすごい。グランドメニューがあって、そのメニューの品数は他の国のレストランと比べるとただ事ではなく、そして品切れなぞないことが多い。すごいことだ。そしてその状態を365日、保ち続けるのだ。並大抵のことではないと思う。こんなレストランが軒を並べてしのぎを削る国は日本くらいなのではあるまいか。


それはつまり資本力でもあると思う。店舗での食材管理、流通の整備と効率化、商品開発の研究。長く品質を保つ技術。全国に同じ看板を掲げる数百店、数千店のメニューをすべて均一な味と香り、鮮度に保つためには莫大な労力と資金力が必要だ。その上それをリーズナブルと消費者が感じる値段で提供をしている。
例えば離島と東京新宿、その看板が同じものなら同じ値段と味なのだ。

異常ではないか。

季節も天候もあるだろうに、生鮮野菜や決められた食材はメニューに美しく写真が載っており、それは絶対のルールとなる。写真通りでなくてはいけないのだ。生産者へのプレッシャー、契約条項、それを死守するための技術革新や科学的なアプローチ。そのコストは当然ながら最終的には口にする皆さんの支払う価格に乗ってくる。なのに、安い。
いろいろ変だとは思わないだろうか。

インド料理では、いや日本の家庭料理でも、その他の世界のお母さんたちの料理はカレーや味噌汁、おかずの味は毎日完全一致、一定などということはない。当たり前だ。家庭のお母さんが、家族の顔を思い出し、その日ごとに考えて作るのだから。
今日は寒いから暖まる献立にしてみましょうか、とか、息子はどうやら体調が悪いようだから、消化を良くするスパイスとリラックスできるハーブを使いましょう、とか。
レストランの料理も、町のレストランや食堂なら同じ考え方で作っているはずだ。市場で探した、今日いちばんいい食材を買ってきて、それをコックさんの技術でいちばんおいしく仕立てて献立に載せる。だから通年で出せる決まったメニューはそれほど多くない。当たり前だ。

食に関わる人は、それが、自分が手がけたものが、人のからだにはいるということを意識していない人はいないはずだ。巨大なセントラルキッチンで一日何万食も作られるメニューを手がける開発者も、町の食堂のおっちゃんも分け隔てなく同じだろう。
が、しかし。間に流通や保存、加工方法やいろいろな要素が複雑に重なれば重なるほど、多くの人の手を通らなければならず、そのなかでいちばん初めの開発者の想いが薄まったりしているかもしれないのではないか。そういう想像力を持って夕食の、ランチのテーブルに付くことは悪いことではないと思う。

売り切れでお休み、仕込み中、は正直の証かもしれない。
(お客さんの来客数の読み違え、という線も捨てきれない。そこは人間のやること。ご愛嬌、だ)