2016年8月15日月曜日

ガジェットについておもうところ。

ガジェットの勢いがない、と感じる。
おもしろいもの、ジャンルが少なくなった気がする。

おもしろいものもないわけではないが、GoProスゲー!、とかVR万歳!とかは全然思わない。正直むしろVRなんてわたしは興味がない。
ただ、その使用シーンやそこで得られるエモーショナルなものが素晴らしいのだ。それが本質だと思う。
最近はガジェットにとんと反応を示さぬ自分のアンテナだが、ガジェットが好きなんじゃなくてそれを使って世界が変わるのが好きなんだ、と気づいた。だから、いい経験だったけど自分がやってたガジェットに対する向き合い方を振り返り、違和感を感じている部分は少なからずある。
いや、うん、意外と変わってないか。仕事にせよそうじゃないにせよ突き詰めるとカメラが好きなんじゃなくて撮れる写真が問題なんだし、道具だから自分が望むシーンで思う通りに答えてくれる機械がいい。「このデバイスがあるから手に入った体験。それも自分が望むもの」に心動くのは変わってないみたいだ。だからレビューっていうのは人のものはちょっと意味がないと思う部分もある。その本人じゃないと使用シーンは限定出来ないしそれと同じレビューってのはなかなかむずかしかろう。受け手もそのレビューを読み解いたり想像したりする力がなくちゃいけないし。だからレビューにしろ、その機械そのものにしろ表層のマスが否定的でもそれはどうでもいい。自分にフィットするかどうか、それを自分で見極めることだ。これはね、ガジェットガジェットってさんざ書いたけど、カレーにも、自分の日々にもすべて共通することなんだよね。


<追記>

25年ほど前に10年間、雑貨業界におりまして。それでね、ずっと色々自分の好きな物をみてきて思うこと。これはごく私的な感じ方なんだけど、雑貨というものが一度死にました。そしてその魂はガジェットというジャンルに宿りました。ところがそのガジェットが瀕死。気がつくとその魂はアウトドアというジャンルにあったなあ。そういう気分が僕の「いま」の気分です。詳しくはチャンスがあればお酒の席で。



2016年8月12日金曜日

雑貨の終焉とガジェットの道半ばと見えない未来と。

雑貨の終焉はもうずいぶん前から始まった気がしている。依然このブログにこんなエントリーを書いた事がある。

「追悼、ビレッジヴァンガード」

それと、文化屋雑貨店がなくなってしまうという衝撃的な知らせが届いてすぐ書いたエントリー。こちらにはむげん堂やガラクタ貿易の事にも少しふれた。

「文化屋雑貨店。僕らは雑貨と一緒に育ってきたんだっけな。」

僕たちはピンクドラゴンの山崎さんを失い、クリスマスカンパニーやビレッジヴァンガードから魂が抜けていく様を目にし、文化屋雑貨店を失い、F.O.B.CORPをも今回、失った。
かろうじてお茶の水ではなくなってしまったガラクタ貿易、それにアジア雑貨の元祖仲やむげん堂の各店に心を支えてもらっている。

ギフトショーにもう何十年も通っている。10年ほど感じているのは「海外渡航直接仕入れはもはやナンセンス」ということ。
バイヤーが海外に飛び、汗をかき、靴をすり減らして見つけてきた雑貨たち。そういう宝物のようなものと出会う場所だった雑貨店。しかし今や店頭に並ぶ雑貨たちはどれもみな「どこかで見たもの」ばかりになった。ギフトショーに行けばわかる。それらはすべてギフトショーに出展されている。トレードショーなわけだからそこで商談がなされ、数ヶ月後には国内の各地の店舗にその商品が陳列される。渡航開拓の予算もなく時間もかけられない時代、その流れは止められなかった。そこまではまだよかった。
15年ほど、わずか15年ほどのインターネットの普及とECサイトの乱立で雑貨バイヤーではなく、コンシューマーがバイヤーと同じスピードで「あ、これみたことある」の状態にモニターの前でなってしまう。これでは本当にどうにもならない。もはや世界には宝物はないのだ。

今あるものはもう古い。そうやってすこしづつ雑貨の価値が弱まってきたところに「ガジェット」なるものが現れる。カメラや電子機器、ちょっとした小間物を世の中でガジェットの名前で呼びはじめたのはいつの頃だろうか。なんとなく浸透してきている言葉。なんとなく、なのだが雑貨からがジェットへのシフトが始まり、盛り上がり、そして今。そのガジェットという新しい価値がまた色褪せつつある気がするのだ。

いま、キーワードが「アウトドア」というものに集約されてきた感がある。
雑貨、ガジェット。どちらも必須ではないが生活に潤いやおもしろさを与えてくれるもので、しかしともするとそのもの自体を手に入れて終了、的な流れもあった気がしている。それはやはり少し違っている気がしていて、その雑貨なりガジェットなりを使って生活がライフスタイルが変わるとおもしろい、という結果が大事という考え方。アウトドアギアなんていうものはそう非ねば存在価値がないし、それを目指して作り込まれているはずだ。

そういう流れを感じている。

2016年8月11日木曜日

仙台のカレー店で聞いたインスタグラムのこと。

先回の続き、と言えば続きになるだろうか。

仙台に行って、友人のカレー店を営む男の話しを聞いた。大変におもしろかった。なんといっていいのか、価値観の違いや現代とはどういう時代なのか、というような話しなのだが。

彼の店にとあるお客がやってきて、店内や料理の写真をそわそわしながら撮っている。どうも普通の客と感じが違う。友人の店は大変に変わった店で、こんなのは国内で唯一なのではないかと思っているのだが、その日のメインディッシュであるカレー、この日は6種ほど用意されたのだがそれを小さな小分け皿に美しく小さくすべての種類をとりわけて客の前に持ってくる。それを味見させて気に入った味を注文すると言う、親切すぎるというか、七面倒くさいというか、とにかくすごい店なのだ。
そういうことを親切心と強い思いでやってのける店で、自ず店主の人間力は高いものとなる。なのでちょっとでも挙動不審の客がいるとさっそくそいつを取っ捕まえて説教に入る。まったくおもしろい店だ。

件のきょろきょろそわそわの客をつかまえて例のごとくそのお客に料理の話しや説明をした。しかしちっとも要領を得なかったそうだ。つまり、料理に対する基本的な知識が不足しているようだった。それは悪いことではない。そこから興味を持って知識をつけていけばよいだけの話しだ。友人の話しはきっとそのきっかけになるだろう。
そんな説明を受けて客は素直に食べはじめ、店主もそれを満足してみていたようだが、帰り際。
件の客が「東京から来ました。インスタグラムやってます」といって自分のインスタグラムのアイコンであろデザインのステッカを何枚も手渡してきたそうだ。これには店主も辟易したようだ。聞けばカレーの食べ歩きをしているようで、何百店も食べ歩き、フォロワーも多数。東京からこうやって遠征に来たりするそうだ。しかし。それにしては料理の知識が浅いのではないか、店主はそう思った。色々聞くのだがやはりなんとしても要領を得ない。噛み合ないのだ。そんな彼が唐突に「インスタグラムやってます」などという。その価値観はいい悪いではなくて一般的ではないのを彼はわかっているだろうか、心配になる。そしてその言葉は「この店の評判は影響力大きい僕が作るんだよ、わかるかい?」「なので有名なこのステッカーをあなたの店にも貼りなさいい」そういう言葉と同等だと、わたしも思う。たとえ彼が層は思っていなかったとしても、そうとられるのは仕方のないことだ。


そんな話しを友人から聞いてピンと来たのだ。これはあくまでわたしの想像なのだが、彼は写真が一番大事なのではないだろうか。わたしもわかる部分がある。食べ歩きをはじめた初期の頃、写真がうまく撮れなかったり撮影が禁じられている店でがっかりしたり、ということがあった。とにかく軒数をこなすのが好きで、価値だと思っていた。しかし、料理のうまさはそれとはまったく関係なく、いつでもそこにあった。
彼はどう思っているだろう。食事を心から楽しんでいるだろうか。写真が撮れなかった店は意味がないなど思っていないだろうか。そしてそのフォロワーたるインスタグラムを検索エンジンとして使う若いおんなのこたち。どこかリンクするものを感じる。

懸念していることがある。彼ら、彼女らは写真を中心にものを考える。それはいい。が、しかし。そこに探究心はない。その写真に写っている食べ物に、実はたいして興味はないのだ。単純に「きれい」「おいしそう」それだけを抽出している。そしてそれに答えるべく、裏打ちのない感想文といえるようなものをそえて、一番大事なのはきれいな写真、という考え方で店をまわる食べ物系インスタグラマーと呼ばれる人々。そういう関係性でつながってしまった感を覚えている。これに反発を覚えるあなたに意見はない。だってすでにこの文章に反発して、そうではない、食に興味があるのだ、と思っているのだから。なにも言うことはない、むしろ心強い。

かくいうわたし、最近では味などいう曖昧な基準は意識してさけて書いてみたりするが、逆にそこで出会った感激や気持ちをなるべく言葉に詰め込むようにしている。そちら側からのアプローチでなにか食べ物に関する興味を喚起出来ないか、そんなことを考えて文章を書く。が、そんな御託は彼女らは一瞥もしないわけである。

これはいい悪いで仕分けるものではもちろんない。だがしかし、それだけ。きれいでおいしそうだけで大丈夫なのだろうか。お店をめぐるのは新しい写真をインスタグラムに供給し続けるためだけでいいのだろうか。どう受け止めていいのか、わたしにはわからない。

インスタグラムの恐怖。

2010年秋にリリースとなったインスタグラムという写真共有サービスがある。サンフランシスコのソフトウェア会社が作ったもので、もともとはアプリ内で完結させるシステムだったがWebからの閲覧等の要望も強く、ブラウザ閲覧やいいねを押せる仕様に落ち着いた。


インスタグラムはスタートの頃から使っていたが、当時は純粋に写真を楽しみ、共有するユーザーがほとんどを占めていた。それなりに考えて撮った写真をアップロード、初期の頃のユーザーグループなどはデジタルカメラ、iPhone以外で撮った写真は御法度、外部アプリで加工などもNGなどの厳しいローカルルールを持つもところもあった。それはそれでとてもおもしろい時代だった。iPhoneの中だけで完結させることに価値観を見いだしたりするユーザーは多かった印象がある。とにかくみんな写真に真面目だった。(当時はAndroid用のアプリはなく、Androidユーザーがアプリのリリースを首を長くして待ちわびていたのを覚えている。その後、実に2年間のタイムラグを経てAndroid版がリリースとなった)外国人のユーザーにいいねを押してもらってとてもうれしかったのもインスタグラムだ。写真を使う、言葉がいらない写真SNSならではのコミュニケーション。素晴らしい、写真で言葉の壁を越えられるのか。そう思った。


わたしは一度インスタグラムを一度止めている。


前出のiPhone写真のユーザーグループに属したり、インスタグラムの中での、iPhoneグラファーと呼ばれる人々の中でフィルムカメラ時代以来忘れかけていた写真のおもしろさを再認識したり、一生懸命写真を撮ったりして楽しんでいた。雑誌やムックにも自分の写真作品が数多く載って、たいへんに得難い体験をした。今でも大切な思い出だ。そんななかで、ユーザーグループ間で争いごとをする輩がでた。まったくくだらない話しで、反吐が出た。どちらも自分たちが上、自分たちがオフィシャルだといいはり、それをみていてインスタグラムが大嫌いになった。インスタグラムへの写真投稿をきっぱりとやめた。気分が悪かった。

時は経ち、眺めてみればもうインスタグラムに写真を極めるSNSとしての役割は終わったのを悟った。主な使われ方は日常を撮ること。それが大多数のマスを占めている。それで、もう作品性などは考えず、ただカレーの写真だけをアップロードする便利でマスが大きいプラットフォームとして再度使いはじめた。ユーザー数が多いから。拡散力があるから。ただそれだけ。たったそれだけ。あとはまったくなにも期待していない。そこに「芸術」は必要ないのだ。

そんな折、インスタグラムが流行なのだ、という話しを若いおんなのこから聞くようになった。彼女らのインスタグラムの捉え方は古いわたし世代のユーザーとは意を異なったものであった。ソーシャルネットワークそのものなのだ。それも、言葉を持たないソーシャルネットワーク。そして、検索エンジン。彼女らにとってインスタグラムはSNS、コミュニケーションツールでもあり、Googleの代わりでもあるのだ。それも言葉、文字をほとんどを使わない、不思議なSNSであり検索ツールなのだ。

彼女達の使い方はこうだ。ランチタイム、彼女は渋谷にいる。渋谷でおいしいイタリアンのランチを食べたかった彼女はインスタグラムを立ち上げる。そのアプリの中でハッシュタグ検索をするのだ。「#渋谷ランチ」と打ち込む。すると「#渋谷ランチおすすめ」「#渋谷ランチどこ」「#渋谷ランチ人気」「#渋谷ランチ安い」などの候補がどんどん出てくる。その中の好きなワードをクリックするとインスタグラムにアップされた膨大な量のランチの写真がでてくるのだ。彼女らはその中からおいしそうな写真を選ぶ。そこには店名のハッシュタグがあったりおいしい〜などの言葉がハッシュタグとして残されている。ここでやっとGoogle検索、食べログ等の出番だ。だがそれは住所を知るためだけのもの。食べログの評価だなど御託が述べられているそんなものは一瞥さえされない。そしてその住所検索さえブラウザを介さず、GoogleMapなどに直接店名が打ち込まれ、その地図に従って店に向かうのが彼女らの流儀なのだそうだ。彼女らはいう。「Google検索なんか使うと文字列ばかりで無駄。さっさと食べ物の写真が見られればいい。」効率も良く、真っ当な意見かもしれない。

そんな若い世代のこたちと渡り合わなければならないのだ。フードジャーナリスト、など名乗ってしまったからには。いや、そういうこたちにはわたしはすでに相手にされていないだろう。そうではない世代と仲良くやっていくしか方法がないのかもしれない。由々しきことだと思っている。