2016年8月11日木曜日

仙台のカレー店で聞いたインスタグラムのこと。

先回の続き、と言えば続きになるだろうか。

仙台に行って、友人のカレー店を営む男の話しを聞いた。大変におもしろかった。なんといっていいのか、価値観の違いや現代とはどういう時代なのか、というような話しなのだが。

彼の店にとあるお客がやってきて、店内や料理の写真をそわそわしながら撮っている。どうも普通の客と感じが違う。友人の店は大変に変わった店で、こんなのは国内で唯一なのではないかと思っているのだが、その日のメインディッシュであるカレー、この日は6種ほど用意されたのだがそれを小さな小分け皿に美しく小さくすべての種類をとりわけて客の前に持ってくる。それを味見させて気に入った味を注文すると言う、親切すぎるというか、七面倒くさいというか、とにかくすごい店なのだ。
そういうことを親切心と強い思いでやってのける店で、自ず店主の人間力は高いものとなる。なのでちょっとでも挙動不審の客がいるとさっそくそいつを取っ捕まえて説教に入る。まったくおもしろい店だ。

件のきょろきょろそわそわの客をつかまえて例のごとくそのお客に料理の話しや説明をした。しかしちっとも要領を得なかったそうだ。つまり、料理に対する基本的な知識が不足しているようだった。それは悪いことではない。そこから興味を持って知識をつけていけばよいだけの話しだ。友人の話しはきっとそのきっかけになるだろう。
そんな説明を受けて客は素直に食べはじめ、店主もそれを満足してみていたようだが、帰り際。
件の客が「東京から来ました。インスタグラムやってます」といって自分のインスタグラムのアイコンであろデザインのステッカを何枚も手渡してきたそうだ。これには店主も辟易したようだ。聞けばカレーの食べ歩きをしているようで、何百店も食べ歩き、フォロワーも多数。東京からこうやって遠征に来たりするそうだ。しかし。それにしては料理の知識が浅いのではないか、店主はそう思った。色々聞くのだがやはりなんとしても要領を得ない。噛み合ないのだ。そんな彼が唐突に「インスタグラムやってます」などという。その価値観はいい悪いではなくて一般的ではないのを彼はわかっているだろうか、心配になる。そしてその言葉は「この店の評判は影響力大きい僕が作るんだよ、わかるかい?」「なので有名なこのステッカーをあなたの店にも貼りなさいい」そういう言葉と同等だと、わたしも思う。たとえ彼が層は思っていなかったとしても、そうとられるのは仕方のないことだ。


そんな話しを友人から聞いてピンと来たのだ。これはあくまでわたしの想像なのだが、彼は写真が一番大事なのではないだろうか。わたしもわかる部分がある。食べ歩きをはじめた初期の頃、写真がうまく撮れなかったり撮影が禁じられている店でがっかりしたり、ということがあった。とにかく軒数をこなすのが好きで、価値だと思っていた。しかし、料理のうまさはそれとはまったく関係なく、いつでもそこにあった。
彼はどう思っているだろう。食事を心から楽しんでいるだろうか。写真が撮れなかった店は意味がないなど思っていないだろうか。そしてそのフォロワーたるインスタグラムを検索エンジンとして使う若いおんなのこたち。どこかリンクするものを感じる。

懸念していることがある。彼ら、彼女らは写真を中心にものを考える。それはいい。が、しかし。そこに探究心はない。その写真に写っている食べ物に、実はたいして興味はないのだ。単純に「きれい」「おいしそう」それだけを抽出している。そしてそれに答えるべく、裏打ちのない感想文といえるようなものをそえて、一番大事なのはきれいな写真、という考え方で店をまわる食べ物系インスタグラマーと呼ばれる人々。そういう関係性でつながってしまった感を覚えている。これに反発を覚えるあなたに意見はない。だってすでにこの文章に反発して、そうではない、食に興味があるのだ、と思っているのだから。なにも言うことはない、むしろ心強い。

かくいうわたし、最近では味などいう曖昧な基準は意識してさけて書いてみたりするが、逆にそこで出会った感激や気持ちをなるべく言葉に詰め込むようにしている。そちら側からのアプローチでなにか食べ物に関する興味を喚起出来ないか、そんなことを考えて文章を書く。が、そんな御託は彼女らは一瞥もしないわけである。

これはいい悪いで仕分けるものではもちろんない。だがしかし、それだけ。きれいでおいしそうだけで大丈夫なのだろうか。お店をめぐるのは新しい写真をインスタグラムに供給し続けるためだけでいいのだろうか。どう受け止めていいのか、わたしにはわからない。

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