2015年9月24日木曜日

訃報。

21時過ぎ。横浜都築のインドレストラン、ラニで店主へのインタビューの仕事をしているときに数年ぶりの古い友人からの電話が鳴った。訝しく思いながら電話に出るとそれは訃報だった。変な時間に珍しいやつからの数年ぶりの電話。嫌な予感がしたが、それが当たった。友人が死んだ。癌らしい。

膵臓だったか、腎臓だったか。
長かったが最近では数年に一回という感じになっていたそいつらとの付き合い。それで連絡方法が途絶えた奴らもいて、わたしのところに連絡が来た。幸いFacebookでつながっているやつがいる。メッセージをしてほしいと電話の男は受話器を置いた。
インタビューに戻り、それを終え、メインインタビュアーをわたしのクルマで家まで送って。
そのあとにやっとメッセンジャーで告別式の案内のPDFを送った。程なく返信があって、ほかの友人からも連絡が入ったことが分かった。電話の男も、メッセンジャーの相手もわたしも、冷静で静かなトーンで事務連絡だけを終えた。

ほんの少しのバタバタを終え、はじめに思ったことは「しまった、やつにはまだ用がある」、という思いだった。

いつだったか。iPhoneの3GSを持ってインドに行ったことがあった。当時早々にiPhoneで撮る写真のコミュニティやユーザーグループなどが立ち上がってきた頃だ。Instagramもまだなかった頃だった。インドではiPhone3GSを使って動画や写真をたくさん撮った。帰国してしばらくしてから動画はApple Store銀座のシアターで行われたイベントで上映、写真は新宿のハッティというインドレストランの壁を使って行われた写真展(二人展)で展示され、多くの方にご来場、鑑賞いただいた。大変に光栄だった。亡くなった友人は今晩訃報を電話で知らせてきた男とふたりでこの写真展にやってきた。一通り見て散々酷評をして帰っていった。これがなぜこの並びなのかわからない、この写真だけがほかの写真の中で関連性がない、わからない、わからないと様々な文句をつけて帰っていった。大変気分が悪かった。
後で思い出したのだが彼は写真をやっていたはずだ。当時のiPhoneで撮る写真と写真作品、コミュニティやその空気、彼はもしかするとその時そういうものを知らなかった可能性がある。いや、そんなものを知っている人は東京と大阪にひとつまみづつだった時代だ。そしてそれを知る必要も理解する責任も彼にはなかった。

そういう経緯で彼とは疎遠になった。
そうではなくても当時の仲間たちとたまに行っていたキャンプもあまり行われなくなっていたし、彼とだけでなく、中学高校時代によく遊んだ仲間は随分疎遠になっていた。
一度わたしが自動車事故にあったときに心配してメールをくれたが、返信をしなかった。ただそれだけだ。ただ、そのメールが実質彼とのやり取りの最後になった。後悔は先には立たぬ。そういうことだ。

彼がどう思っていたかはわからない。わたしが彼に対して腹を立てていたことを、もしかするとからは知らぬままだったかもしれない。今となってはなぜ彼があの写真を否定的に捉えたかもわからない。「やつにはまだ用がある。」ということだ。それは果たされなくなった。

くちをきくこと。しゃべること。顔を見ること。これはすぐさまやるべきことだ。インターネットなんてものを介していては遅きに失する。その事例がこれだ。このザマだ。彼の部屋の下に車を止めて、こんなことをいくら書いても彼は起き上がって降りてはきやしない。

だから、気が済んだから部屋に帰ろう。
未だ、彼が死んだなどまったくリアリティがない。信じられない。
あいつにはまだ用がある。

2015年9月23日水曜日

東京の夜の誰もいない場所。

よくしたことにこの東京でも「誰もいない場所」というのはあるものだ。
わたしはいつの頃からか、誰もいない場所というものを嗅ぎ分ける能力を身に付けてしまっている。

クルマに乗って走るとき、という話だがわたしはどうにも人のいない場所へ、人のいない場所へとハンドルを向けてしまう傾向がある。夜の闇、本物の暗闇などというものは東京に於いてはほぼ、存在しない。しかしながら上手に時間を選んで東京の外れあたりをを選んで走ってみると、なにやらぽつりぽつりと人がいない静かな場所がある。そういう場所をクルマで楽しむ。
こういうのはもしかするとあまり褒められた趣味ではないのかもしれない。
何故夜走るのか、なぜ人がいない場所を選ぶのか。それはそういう場所が私の好奇心や想像力をどうにもかきたてるからだ。その気分には抗えない。



いつもそそくさと身支度を整え車のキーを机の上から取り上げる。
月明かりの夜がある。どんよりした雨の日もある。強い雷雨、雪の降る日、そんな天候がすぐれない日、そういう時の方が気持ちが大きく動く。心の振れ幅や感じ方の受容素子がざわざわと音を立てて波立つのだ。そんな夜は必ずクルマのキーをうろうろと弄んでしまう。いや、迷う事は少ない気がする。思った時はすでに足がガレージに向かっている。そうやって車のドアを開いて、またエンジンに火を入れてしまう。

なにをする訳ではないのだ。
ただただ、クルマを走らせる。たまに気が向いて写真を撮ってみたりする。ビデオをまわすことは稀だ。いい所写真、それよりも自分のざわつく心を楽しんで夜を走る。そのざわつく心に任せたままハンドルを切り、アクセルを踏み、ひとりごとをつぶやいたり昔のことに胸を痛めたりする。

なによりも心が自由になる時間というのがわたしにとっての「誰もいない場所」と「夜の闇」らしい。そこに身を浸す為に、自分のクルマはいつでも切らさずに飼っている。

2015年9月7日月曜日

お腹がすいたまま書きなぐる最近思っていること。

すごくお腹をすかせた2015年9月4日、12時49分。一食の価値、なんて事を考えている。ごく私的な一食の価値について、だ。
わたしは食べることが仕事になっている。正確には「食べて、その食そのものとその周辺について感じ、そしてそれを書く」というものだと思っている。それはつまり食事が仕事であるということだ。今年の夏で51歳になったわたしは日々考える。
"お腹がすいた、なにか食べよう。
そういえばなにかSNSを動かしてやらねばな。
じゃあカレーを食べようか。
本当はいい季節なので旨い秋刀魚でも焼きたいなあ。
でもそれほど長くはない自分の残り時間でカレーじゃないものを食べていて大丈夫なのか。”

そういう、角度を少し変えると精神を病んでいるような考え方にとらわれることがある。

ちょっと話しは飛ぶが、30年ほど前の恋人の話しだ。
長距離恋愛だった。彼女は静岡県の焼津市に住んでいた。雑貨の貿易の関係で知り合った女性だ。とんがっていてファッションやカルチャーに敏感で、いつでも先を、尖ったものを見続けているような人だった。そういう彼女がかっこよくてとても好きだった。

ある日彼女はわたしにこういった。

「あなたは東京に住んでいる。朝になれば美術展がが開門する。19時の時報と共に東京中の劇場が幕を開ける。東京に住んでいるあなたはなぜそこに駆けつけないの?」

彼女の気持ちがとてもよくわかった。胸が痛んだ。返事は返せないままだった。
東京に住んでいるわたしは「選ばれた人間」なのだ。大きな苦労をせずにいろいろなものを生まれた時から掴んでいる、幸運な一握りの人間。そう見えていたのだろう。東京に生まれて住むというのはそういうことだったようだ。たった30年前の話しだ。
そのあとしばらくして彼女は東京を通り越してアメリカ、ニューヨークに飛んだ。帰ってきた噂は聞いていない。

飢餓感や、環境があるのに動かないものへの怒り、理解しがたい気持ち。そうなのだ。彼女は得ようとしても得られないまま憤怒と憧れの気持ちを抑えずに、わたしを通り越してもっと刺激的で得られるものがあると確信した場所へ向かったのだ。説得する力、止める力を持たない当時のわたしはただただ、呆然と見送るだけだった。

なぜそんな話しをしたのか。
飢餓感と焦り、か。

こと食に関して、それはフィジカルなものにも繋がり、素直であり続ければいいと自分でうそぶいている。が、しかし実際はこの有様だ。生き物には時間が決まっているという代え難い事実があり、その中で特に人間はこんなことでくよくよ悩んだり考え込んだり座り込んでしまったりを繰り返す。

素直でいいのだ。近所の定食屋に行って冷やし中華でもしょうが焼き定食でも食べればいいだけなのだ。しかしいつでも「カレーじゃなくていいのか」はつきまとう。そんな毎日だ。