2014年7月21日月曜日

人のサービスを横目で見て我慢できない人。

レストランで特別なサービスを受けることがたまにある。懇意にしているお店の時も、初めて行ったお店の時もある。そういうのはとても嬉しいもので、喜んでその頂き物やサービスを楽しむことにしている。

少し気まずい時があるのも本当のところだ。だって他のテーブルにはそのサービスがいかないのだから。気まずく感じるのはきっと控えめな日本人気質からなのだろう。本来なら堂々としているべきとも思う。なぜか。

例えば私が受けている特別なサービスを羨む人がいる。ずるいと感じたり疎ましく思ったりする人もいるらしい。
少し、おかしい。それと考え足らずだ。

サービスには理由がある。いろいろな理由があるだろう。例えばわたしなら雑誌、ネット、その他メディアなどにお店を紹介差し上げたことがあったり。何度も友人を連れて来たり。お店のお手伝い、物理的なものもそうではないものも含め。

お店のためになにかをしているのだ。

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それがメリットである、とお店の人が判断して、よくしてくれた人にお返しをして差し上げよう、と考えたのだ。
わたし自身がそれ(お店に親切にすること)を意識している時もいない時もある。この際その「わたしの」思考は関係がない。まったくないと言っていい。お店の方が好意を持ってくれている、ということ。たったそれだけだ。たとえばあなたになくてわたしにサービスがあったとしたら、わたしはあなたよりそのお店にとって何かしらを差し上げているのではないか。
逆もそうだ。あなただけになにかしらのサービスがあったとしたらそれは他の人よりもそのお店に何かをして差し上げている。あなたがだ。お店はそう思っている。

それのどこが不公平なのだろう?

「お前だけずるい、不公平だ」はかわいそうだが子供の意見だ。その意見には「なぜなのか?」がない。その事象に対しての思考が停止している。なぜだろう?そう思う力が最終的には人間力を呼び、日々が充実するだろう。例えば、人よりもよくされる、ということかもしれない。

ただもうウマがあう、そういうのもある。人がやっているのだ。あなたも、人だ。

その本に寄稿していないのに献本が来る。レストランにお呼ばれをしてご馳走いただく。(お支払いを希望する時もある。笑顔でご馳走になる時もある)素晴らしいプレゼントをいただくこともある。あなたにだってあるだろう。その時に考えるのだ。なぜこの人はよくしてくれるのだろう。それを考えるのはは容易い。なにせ自分のことだから。
自分に力を付けるなら他人の幸運を見て、あの人はなぜ人に良くされているのか。それを考えるべきだ。
プレゼントを突っ返す、その礼を失した行為も自分の立場でならわかるだろう。なぜ人には当てはめられないのか。

自動販売機に親切にしても何も帰ってこない。その代わり、いつだって、誰にだって、自動販売機は公平だ。それが王様でも子供でも。
店を選ぶか、自動販売機で買うか。選ぶのはあなただ。


追記

これを書いていること自体わたしは恥ずかしく思っている。お世話になっている方々にこんな文章を読まれたくない。が、しかし、いいたいことはこうやってちゃんとある。言わなければならないのが、歯痒いのだ。

2014年7月12日土曜日

レストランの食事の金額、の話し。お財布と価値観と。

店に行って食事をして。そのお値段の話し。


高い、安い、という人がいる。意識もしていないし罪なく言っているのだろうとも思う。街を歩いているとそんな声も聞こえて来たりする。他愛のないものだ。
インターネット上でそれを書く人もいる。そうなると少しニュアンスが違ってくる。なぜだろう。

インターネットは匿名が横行しており顔が見えないから、だろうか。街でそういう声が聞こえて来てもそちらを振り向けばそこに言葉を発した顔があり、意図がわかる。ホッとする。ネットではそれがない。ただ言葉だけがあり、そこに残されていた言葉だけがひとり歩きを始める。いくら相手の立場に立とうとしてみても、顔が見えないとそれが出来ない。ただ言葉だけがある。

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値段の話し、基準というのはどこにあるだろう。簡単だ。他愛のない会話のなかに出てきた高い、安いはただ、その人のバッグのなかにある財布の中身。たったそれだけが基準だろう。それでいい。

ただ価値、価格あたりの値(あたい)というのはそういう場所にあるものではない。
この話しはたまたま食事の値段という話しだが、他のあらゆるものについている値段の、その導き出された理由に依る。
食べ物だったら簡単だ。素材と物流と周辺コスト。それに板前さんの技術料だ。腑分けするのは簡単だ。が、そう簡単にいかないのが人の気持ち。振り返ってみればいい。自分の仕事の価値、その対価としての取り分。思いを込めた仕事。単純な金額では計れない。ひとのからだに入ってゆく食べ物を扱う商売の人たちはその思いもひとしおだろう。

単純に自分のお財布の中身だけで高い安いを口にしてしまうのは少しこわいことだ。
安ければ良いのか?300円の価値は人それぞれだ。が、300円で一食が済んでしまう不思議さ、異常さは気に留めておいた方がいいのではないか、と思う。駅前の店でその金額で食べられる食事と同じものを自宅で手をかけて作ってみればよくわかると思う。

なぜだかインターネットには匿名での行動という麻薬のようなチョイスができる。普段、会社や街で気をつけていることが気をつけられなくなる。おかしな中毒性があるのだ。きちんとニュアンスが伝えられない場所で、そんな場所であるにもかかわらずますます暴言を吐く人々。
親しい人との屈託ない会話なら、心通じる前提での軽口も楽しかろう。しかし自分を離れてしまったネットの上での言葉は、不特定多数の人の心には残念ながら伝わらない。

安いのにはわけがあり、高いものに理由がある。すべての事象には理由があるのだ。
それを気に留められるか否かで、なぜだろう、というものの考え方の根幹があれば、日々や人生さえも変わるのではないだろうか。

価格の価値はあなたの財布の厚みで変わるものではない。
そして、どうにも食べログは、苦手なのだ。

2014年7月7日月曜日

エキサイティングマックス!の原稿の話とレストランを守る自分のエゴと。

月刊男性誌、ぶんか社の「エキサイティングマックス!」に連載を持っている。
いつでも大変に苦しんで書いている。なにを苦しんでいるのか。それは。

それは、必ず「自分の好きな店」「大事に思っている店」を取材先に選ぶから。
そして自分の好きな店の店主がどの店でも「任せた」と言ってくれるから。

私の原稿。取材先、お店には入稿する原稿のチェックはしてもらわない。
住所や営業時間等はもちろんきちんと公式のHPやショップカード等で確認、店主にも最新の情報はどれを見ればいいのか等は取材時に確認をする。そしてそれを編集部でもチェックを入れるという二重チェックのスタイルだ。
そういうなか、よく店主に「雑誌が発売されるまで原稿見せねえからな」など軽口をたたくことがある。するとどこの店主も「いいよ、任せたから」と口を揃える。「なに書いたっていいからさ」と。
さあ、ここからが苦労の始まりだ。

写真はイメージです
なにしろ「任された」わけだ。全幅の信頼をわたしの文章、筆においてくれたわけだ。これは、相当に背に重い。当たり前だが真剣度は針が振り切れるくらいだ。そうやって背負うと、文章が長くなる。何もかも書きたくなるのだ。ところがここからまた地獄が待っている。想いの丈をぶつけた原稿。編集部から規定をもらっている約1200ワードから倍を超えることもままある。それを規定量に削っていく。大変に厳しい作業だ。全体のバランスを見つつ、絶対残したいものを残しながらバランスを保つ。ほとんど書き直しという時もある。ともすれば詰め込みたさが勝つあまりぶっきらぼうな文章になってしまったりもあり、反省の日々だ。
一つの原稿仕事にこれだけ熱を入れて書くのは、生活や仕事という話しから考えれば行き過ぎではあるかもなあ、とも思うこともある。が、やめられない。

話す機会があまりなかったのだが、わたしの文章、ブログや紙媒体、Webメディア、問わずに共通していることがある。これらの飲食店に関する文章は、すべてわたし自身のエゴの元に成り立っている。誤解を恐れず言ってしまえば読者のことなど考えていないのだ。まったく、自分のためだけに書いているのかもしれない。長く書き続けてそういう形になった。

それはなになのか、なぜなのか。

わたしはご存知の通り飲食関係の文章に関してはカレーというテーマに特化して活動している。カレーが好きだ。だからそうしている。単純だ。もちろんほかにも好きなものは多くある。イタリアンも、冷やし中華もたこ焼きも、みんな好きだ。
なぜこうも、二日と空けずにブログを書くのか。なぜ月刊誌にカレーで連載まで持たせてもらっているのか。これは、わたしのエゴなのだ。

大好きな飲食店がある。たくさんある。どこも好きで、うまくって、店主はいい人で、思うたびにたまらない。が、しかし。飲食業はなかなかむつかしい。うまいだけじゃだめだし、人柄だけじゃないし、近所にある大企業が移転することだってあるし。そうやって飲食店がなくなる。わたしの大好きな店が、なくなる。それは耐えがたいことだ。あの素晴らしかった代々木のスパゲッティの店「くじゃくの舌」スリランカカレーのブッフェでサンボルだってきちんとあった練馬の「ディヤダハラ」西荻窪の落ち着ける欧風カレーの店「トラトラ」。
なくなってしまったあの店やこの店が浮かんでは消える。

たとえばあのとき、もっと通っていればあの店はなくならなかったのか。もっとがんばって通っていれば。しかし、現実問題、その大好きな店に毎日通って毎日1万円づつ落とすのはまったくもって現実的ではない。そこではたと気がついたのだ。自分だけで応援をやる必要はない。他の人の財布にも協力を求めよう、と。
そうやってブログで、メディアで、好きな店を紹介してゆく。結果、店は潤い、何らかの形で続いてくれる。そういうサイクルが出来れば、と常に思っている。そう、それはエゴなのだ。しかしそのエゴで不幸せになる人もいないはずなのだ。わたしはきちんといい店しか紹介しないし、そのいい店の基準を味だけ、値段だけには決してしない。そこでなにが起こってなにが楽しかったのか。体験を伝えたいのだ。味は当てにならない。人間の舌は、経験は千差万別で100人いたら100通りのおいしい、がある。それを伝えるのは至難の業だ。なので、体験を伝える。どう楽しむか、を伝える。どう感激したかを伝える。そういう風にいつもありたい、そう思っている。

未だ志し半ばだし、わたしの力、影響力なぞたかが知れている。わたしを知っている人はこれを読んで「いや、影響力大きいじゃない」と言ってくれる人も多いだろう。もう一度いう。わたしの影響力なぞたかが知れている。狭い範囲での、わたしなのだ。カレーなのだ。だから、大きな力を持ちそうなチームに参加してみたり、カレー好き、外食好きとは違うジャンルの人たちにリーチをかけようと、もがく。

外食は、楽しいのだ。得るものも多いのだ。それを伝えたい。
ただ外で食事をする、それだけの行為ではないというのを伝えたい。そんなの知ってるよ、という人はいい、これを読まなくても。きっと幸福な外食生活を送っているのだろうから。みっともなくてもなんでもいいから人との繋がり、気持ちのやり取り、そういうものを大きく内包する外食というものを、ちょっとでも後ろから踏ん張って押してやりたいといつでも思っているのだ。

そうやって、毎日カレーを食べている。


2014年6月27日金曜日

ポートレイト写真を撮る楽しみを知った。弓月ひろみさんを撮った。

ポートレイト写真を撮る楽しみを知った。
弓月ひろみさんに教えてもらった。とても素晴らしいモデルさんだ。
純粋なポートレートとは少し違うのかな。教えてもらえたこと、多かったな。

ある日彼女から連絡をもらって「写真を撮って欲しい」といわれた。
なんだろう、と思った。聞けばホームページのリニュアルをするそうで、それに使う写真をいろいろな人に撮ってもらう、というコンセプトを立てたそう。なるほど、美女のお願い、もちろんお手伝いいたしましょう。


浅草を撮影場所に選んだ。選んだのだが、なかなか難しかった。ポートレートを撮るわけだが、外でのポートレート、自分のメンタリティではむずかしい、と感じた。なんと説明していいのかな。広い、いや、開かれた空間だと集中しにくいというか、なんというか。


はじめは雷門あたりで待ち合わせをして銀座線の改札の隅にある小さな地下街でしばらく写真を撮った。モノクロで撮った。これは自分の趣味が多分にはいっている。悪くはなかったのだがもう一つしっくり来ない。
一旦古い喫茶店に入っておしゃべりをひとしきり。のち、撮影再開。
新仲見世や六区あたりをぶらぶら、花やしきのあたりに来たのだがどうもこれという画が撮れない。だんだん冷や汗が出てくる。楽しいデートで終わっちまったらいかん。役に立てず、で終わってしまう。それじゃいかんのだ。そうやって焦りも出て来たところで

「アンヂェラス」

に入ってみようか、という話になった。
アンヂェラスは古い古い喫茶店だ。ヨーロッパの山小屋風の外観とレモンパイというクラシックなケーキが名物。永井荷風や池波正太郎らが通った店としても知られる歴史のある店。気に入っている。ただし人気店でいつでもどうにも混んでいる。そう思っていたのだが、ちょうど潮目、凪の時間だった様子で二階の階段下の席に着いて早々に他の客がどんどん引いて行った。


焦りも何もあったのだが、とりあえずお茶にして、また四方山話。恋愛話や食べ物、旅行の話し。他愛のない話し。古い喫茶店の暗めの照明と独特の空気が距離を縮めてくれる。
そういうのを続けながら手元では幾つか持ってきたカメラを持ち替えて、ダイヤルをまわして。何枚かづつ写真を撮ってはまた考え。すると、どうにもこの店の照明の色や光の加減、色々な要素がうまくバランスするポイントが見えてきた。
心なしか彼女との距離も縮まりリズムも出てきた感がある。外と違って狭い席の距離感、親密感が背中を押してくれるからなのか。あっと思ったらいい写真が撮れていて、驚いた。

どうやらなにかのしっぽをふわりとつかまえたらしい。自分自身もやっと彼女がどう撮って欲しいのか、どう撮られたいのかのツボが見え隠れする所が分かってきた。心なしか、エロティックさがモニターにそろりと乗って来ている感もある。手応えがあった。よし、もう少し。もう少しスカートの裾をあげてもらおう。

そうやって素人なり、自分なりの撮影を終えた。なんとなくわかったのはカメラではなく、腕前でもなく(これはまた別の話しなのだが)、コミュニケーションなのではないか、ということ。
会話の中からどういう写真を得たいのかを探り出し、表情の変化や言葉のニュアンスを一所懸命咀嚼などして。おだて、すかし、おどし、笑わせ、なんとしても表情を引っ張り出したり、逆になにもせずに、そっとそのままの表情を空気の如く気配を消して拾い上げていったり。

そのやりとりから生まれてくる写真の面白いこと。
人前に立ち、カメラのフラッシュを受けることを仕事とする彼女にとってわたし程度の写真では不満も多かろうし、随分枚数を撮った中で使えるものは数える程であろう。が、わたしにとってはなかなか得るものが多い面白い撮影だったのだ。


何年か前、なのだがスタイリストの神様のような人、高橋靖子さんがパーティーに誘ってくれたことがあった。知人もほとんどいないタフなパーティーであったが楽しかった。
そのさなか、キヤノンのiXYの小さなボディを両手で抱え、包み込んでヤッコさんの横顔15センチに近づいて写真を撮り続ける一人の男性を見た。
面白いなあ、近いなあ、と思いながら眺めていた。その後かの男性とカメラ談義をした。たわいもない話だったのだが、後になって色々考えると、どう考えても不勉強なわたしですら知っているレベルの有名な写真家だったようなのだ。そう、T-REXやデビッドボウイを撮っていた人、だ。部屋に帰ってたくさんの冷や汗をかいた。
そのキツイ思いの中で考え至ったのが「機械ではない」ということ。彼があの日撮ったヤッコさんのポートレートを見たわけではないが、確信として言えるのはいい写真をたくさん撮っていたのであろうこと。コミュニケーションが出来ていたからこそ、信頼関係があったからこそあそこまで寄って、どんどんシャッターを落としていけていたのだなあ、ということ。

弓月ひろみさんとそういう関係を築けたか。はなはだ疑問ではある。しかしその一瞬、なにかを掴みかけた、いや、掴んだことは確かだった。そういう気がしている。


面白い。やっぱり写真は面白い。
カメラじゃなく、写真は面白いんだ。

人はおもしろいんだ。



2014年6月19日木曜日

「臨時休業」(仕込みまにあわず)は健康的だと思う、という話し。

飲食店で「臨時休業」(仕込みまにあわず)という張り紙を見ることがある。
Facebook等で知ることも多いのだけれど。
売れた。予想以上に売れた。なのでストック、仕込み済みが底をつく。
物理的に営業は無理だ。帳尻合わせでは営業できない。仕方ないので一旦店を閉める。

健康的である、と思う。

ニッポンのレストラン、大手の資本が入ったところなどが特にそうなのだが、素晴らしいこととしてやっていたことが、どこかでボタンを掛け違えておかしなこと、不健康ことになってしまっているかもしれないなあ、と思うところがある。

ニッポンのレストランはすごい。グランドメニューがあって、そのメニューの品数は他の国のレストランと比べるとただ事ではなく、そして品切れなぞないことが多い。すごいことだ。そしてその状態を365日、保ち続けるのだ。並大抵のことではないと思う。こんなレストランが軒を並べてしのぎを削る国は日本くらいなのではあるまいか。


それはつまり資本力でもあると思う。店舗での食材管理、流通の整備と効率化、商品開発の研究。長く品質を保つ技術。全国に同じ看板を掲げる数百店、数千店のメニューをすべて均一な味と香り、鮮度に保つためには莫大な労力と資金力が必要だ。その上それをリーズナブルと消費者が感じる値段で提供をしている。
例えば離島と東京新宿、その看板が同じものなら同じ値段と味なのだ。

異常ではないか。

季節も天候もあるだろうに、生鮮野菜や決められた食材はメニューに美しく写真が載っており、それは絶対のルールとなる。写真通りでなくてはいけないのだ。生産者へのプレッシャー、契約条項、それを死守するための技術革新や科学的なアプローチ。そのコストは当然ながら最終的には口にする皆さんの支払う価格に乗ってくる。なのに、安い。
いろいろ変だとは思わないだろうか。

インド料理では、いや日本の家庭料理でも、その他の世界のお母さんたちの料理はカレーや味噌汁、おかずの味は毎日完全一致、一定などということはない。当たり前だ。家庭のお母さんが、家族の顔を思い出し、その日ごとに考えて作るのだから。
今日は寒いから暖まる献立にしてみましょうか、とか、息子はどうやら体調が悪いようだから、消化を良くするスパイスとリラックスできるハーブを使いましょう、とか。
レストランの料理も、町のレストランや食堂なら同じ考え方で作っているはずだ。市場で探した、今日いちばんいい食材を買ってきて、それをコックさんの技術でいちばんおいしく仕立てて献立に載せる。だから通年で出せる決まったメニューはそれほど多くない。当たり前だ。

食に関わる人は、それが、自分が手がけたものが、人のからだにはいるということを意識していない人はいないはずだ。巨大なセントラルキッチンで一日何万食も作られるメニューを手がける開発者も、町の食堂のおっちゃんも分け隔てなく同じだろう。
が、しかし。間に流通や保存、加工方法やいろいろな要素が複雑に重なれば重なるほど、多くの人の手を通らなければならず、そのなかでいちばん初めの開発者の想いが薄まったりしているかもしれないのではないか。そういう想像力を持って夕食の、ランチのテーブルに付くことは悪いことではないと思う。

売り切れでお休み、仕込み中、は正直の証かもしれない。
(お客さんの来客数の読み違え、という線も捨てきれない。そこは人間のやること。ご愛嬌、だ)

2014年6月18日水曜日

ブルーインパルス展示飛行 「SAYONARA 国立競技場 FINAL FOR THE FUTURE」

新宿サザンテラスに行った。結果、なのだが。
その前日、東京上空をブルーインパルスが飛ぶ、という話しを聞いたのだ。セキュリティやデリケートな問題があってか、その噂と公式情報の公開は前々日あたりから大きくなり、あわてて観覧する場所を探す人が続出した。

情報では
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飛行時間は午後5時35分から10分程度。国立競技場を中心とした東京上空で、6機編隊が4種類の直線飛行。当日の飛行ルートは埼玉県の入間基地出発、埼玉県草加市、東京足立区、板橋区等上空を通過。国立競技場上空通過
というもの。

ブルーインパルス展示飛行 
 「SAYONARA 国立競技場 FINAL FOR THE FUTURE」 

私はジェット☆ダイスケ氏に誘われ離陸時間の40分前ほどに新宿に到着。当初彼が「池袋のサンシャイン60」からというのはどうか、と提案。池袋でと思ったのだが、当人が完全に寝ており(デフォルトなのでそう驚かない)そうこうしているうちに時間もリミット。タイムアップでそのときにいたのがサザンテラスであった、というていたらくにして偶然であった。



が、NTTのビルをかすめて飛ぶブルーインパルスT-4中等練習機のブルーと白の影。ビルの谷の上空、東京の空を飛ぶジェット戦闘練習機の勇姿。その美しさといったらない。

コンデジであるCanon S120、よく働いてくれた。とっさに場当たりで撮ったにもかかわらず、気に入った映像を残してくれた。
カメラの名誉のために言うが、ぼけている時間が長かったり追いきれていない映像は筆者の腕の稚拙さのせいだ。

2014年6月17日火曜日

flick!別冊「鞄の中のデジモノ百科」が、発売中。

「flick!」はご存知のデジタルガジェット総合誌。電子書籍で月刊誌として出ている。
その別冊の形で紙で出ているムック、「flick!特別編集 鞄の中のデジモノ百科」というムックが出た。これがおもしろいんだ。


flick!で連載されているガジェット関係の有名人やおもしろい人を取っ捕まえて鞄の中身をご開帳。モバイルでどんなことをしているのか、なにを使っているのか、というところを白日のもとに曝す。とても楽しい。

僕の友人のマガジンハウスのエディター、池田美樹嬢も登場している。
皆さんの気を引くとすれば、例えばあの16連射の高橋名人や瀬戸弘司さんなんかも登場している。彼らの鞄の中身が覗けるって言う寸法だ。

実はこれの前の号に当たる「flick!特別編集 携帯ツール百科 あなたのデジタルデバイス見せてください」には表紙にも載せていただいた。光栄なことにとなりには日本Microsoftの元社長、古川享さん。文具王やいとうまい子さんとも一緒だ。友人の佐藤リッチマン、弓月ひろみちゃんも。誌面には林信行さん、荻窪圭さんにいしたにまさきさん、sasurauさんも村上タクタさんも川村さん、戸津さんも、、、と盛りだくさん。ホリゾントの前に立って撮影をしていただく、という嬉し恥ずかしの初体験をさせてもらったのもいい思い出だ。


2号目のこれの出版記念パーティーにもお誘いいただいて、とんでもない人と席を同じくした(緑のゾウのアイコンのあそこのCEO、、、もちろんムックに掲載されている)
これにはさすがの僕も鼻からスパゲッティが飛び出した。

flick!、恐るべし。

2014年6月4日水曜日

いいことばかり書く、という可哀想なものの見方の人がいる。

誰だかが私のカレーについてのブログとYouTubeチャンネルについてこう言っていた。


「いいことばかり書いてあるけれど本当なの?マズイ店ないの?」

こういうことを書く人間は普段は相手にしない、というより見かけてもなにも残らない、引っかからない。意識の外にあるから、自分の客ではないと思われるので記憶にも残らない。
とはいえたまに気まぐれでこうして書いたりする。
いいことばかりは本当か?

本当だ。

ただしこの質問を口にしている時点で質問者の意識レベルや経験では「なぜ本当なのか」を咀嚼したり想像したりすることは出来ないだろう。

写真と本文は関係がありません

なぜなのか私にはさっぱりわからないのだが、飲食店に行くと粗探しを始める輩がいて、がっかりさせられる。自分の財布を開いて支払いをするのであろう、そういう食事のときに、だ。あきれてしまう。
きっと職場や生活圏で同じ目にあって、そのループから抜け出せぬまま他人にも同じ嫌な目に合わせて満足している輩なのだろう。
飲食店で自分の財布を開いて食事を楽しむ。そう、食事を楽しむべき店に来て自分で楽しもうという努力をしない部類の輩。まずは同じ土俵に立っていないので話が噛み合わないこと甚だしい。

楽しむための努力の方法はいろいろある。
その場で行う「楽しむための努力」だったら、例えばくだらない粗探しではなく、ブラスマイナスゼロのニュートラルラインからのいいところ探し。
楽しむ気持ち、楽しむ力。人間力とも言い換えられるものを持っているかどうかでそれが出来るかどうかは変わってくるだろう。
その場を楽しむ。ミスと思えるようなものに寛容になったりそれはなぜおこったのかな?と相手の立場に立ってみたりする。
その行為は慈悲深い王のような心持ちだ。誇り高い者には、誇り高くやっている店でならきちんとした扱いが保障される。そして誇り高い者は志同じくする空気が有る場所が、店が、わかるのだ。

事前の準備としてなら、日々を努力して収入を大きくする。現在の日々のランチの10倍ほどの金額のランチを毎日食べられるような線に持って行く。自ずと心の余裕や楽しむための素養がそこまでで出来ている(といい。そうだと信じたい)そういう金額や格のある店にはあなたをイライラさせる要素も少ないだろう。
そういうやり方もある。あなたにやる気があれば、だ。

まずい、とはなんだろう。マズイ。不味い。まずいという言葉。

なぜ質問者は不味い店に当たるのだろう。きっと経験が足りないのではないか。食だけの話ではない。たくさんの経験を積んで判断の幅が広がる。そういうことを怠っているのではないか。そういう勉強や知識欲からより楽しい判断が出来るように自分を鍛え上げてみてはどうだろう。

さあ、あなたの番だ。レストランに行こう。あなたが試される。試されているなど思わずに、こんな文章のことなど笑い飛ばして自分だけの、心から満足行くランチを、あなたは今日、手に入れられるだろうか。



<追記>
不味い店に当たること、不味く感じさせる店に当たることがないわけではない。本来こんな昨今である。野菜も肉も品質改良され、調味料も然りで「味の底上げ」のようなことが戦後ずっと、続いている。そういう中でも「不味く感じさせる店」はあるわけで、それはいい。私はただ、黙っているのだ。黙って支払いをして、抵抗するように残すこともせず、一見いい客風に店を出る。もう一度、はない。そして騒がず、誰に言うともなく、黙っている。さて2〜3ヶ月後。私が件の店の前を通りかかるとどうやら営業をしていないらしい。閉店ではないようだ。廃業だ。つぶれたのであろう。そういう経験を数多くしている。黙っていても、魂なき店は消えてなくなる。あなたが「食べログ」で下品な言葉を並べる必要は、一切ない。


2014年5月29日木曜日

「定食 やまぎし」のあら煮定食。

西荻窪。ホームタウンにこういういい店があると、大変に幸せだ。

「定食 やまぎし」のあら煮定食。

いつも駅への道でここを通りかかる。昼時、店先のメニューを見てこいつを見かけた時は、腹が空いていようがいまいが、ふらふらと店の扉を開けてしまう。そういう困ったメニューが、あら煮定食だ。

まったくうまい。


本物のあらで、鰭や骨がいっぱいだ。はっきりいって食べづらい。が、それをのけのけ食べるのが楽しいのだ。そして食べづらいくらいの魚のあらだからこそ、出てくる味というものがある。
甘く煮付けられた幸せな味に針生姜が心地よく効いている。味噌汁もお新香も控えめの薄味だ。現代の工場で作られる濃い味に慣れた口には一瞬おや、おと思うかもしれない。そこをぐっと我慢して出汁をゆっくり味わうのだ。本当の繊細な美味しさがすぐにわかるはずだ。出汁の繊細さを味わい、締めに残した一口分のごはんと控えめの塩味が上品なきゅうりの糠漬けを大事に、一気に口にほおりこむのだ。
ただ事ではない至福の時間が過ごせるだろう。

最近ではずいぶんな人気のようだ。店がいっぱいの時間もままあるようだ。
昼時は長居する店ではない。だから回転も速い。ちょっと待ってうまいものを食らう楽しみ、代え難いものがある。

2014年5月17日土曜日

外食SNSの可能性。Rettyというサービス

FacebookとTwitterをメインストリームとするソーシャルネットワークの世界。最近ではSNSも特化型のものが数多く見られるようになって来た。自慢のペットを紹介するSNS、洋服や持ち物を見せ合うSNS、ニッチなものまでジャンルとして括ってぶつけてくるサービスが増えている。

その中でも日本で突出しているジャンルが食のSNSではないだろうか。随分参入も増えているようで、その中でも目立っているもの、老舗とされるのが「30min/サンゼロミニッツ」「miil」「Retty」だ。それぞれに特色があって面白い。

30minはタウンページ的アプローチで外食以外の店舗、プレイス、までをカバー。
miilは外食だけではなく中食、内食までもをカバー、地域がキーになっている。
Rettyは長文と数多くの写真掲載が可能な実名型SNS。ブログに近い部分も併せ持つ。

この中で先だって1億円の資金調達を達成し、海外展開を視野に入れるRettyの可能性が気になっている。
Rettyの可能性、という部分でわたしが強く頼もしさを感じるのが「信頼性」の構築方法とその精度。

食べログもある種食のソーシャルネットワーク化している部分があるが、今だ問題も多く、そのレビュワーと言われるユーザーの意見、文章は玉石混合、信頼性において疑問を感じることが多い。運営側の対応や管理も疑問に思う点がある。まとめ方、バランスの取り方が上手にいっていないのではないかと感じることがあるのだ。

大前提として食べ物の嗜好性というものがある。
とにかく舌の嗜好というのは振り幅が大きく共有する上での均一化はほぼ絶望的だ。
共有感を築くのには大変難しいジャンルである。
Rettyはそこを自分と嗜好の似ているユーザーを探す、という切り口と実名性というふたつのキーの組み合わせで信頼性を上げて行っている。これは大変に興味深い、可能性高いアイディアだ。

実名性を嫌う人々の中には匿名だからこそ、と羽を伸ばしすぎて冷静ではいられない人が混じる。信頼性が落ちるわけだ。実名を出して書いているいる人たちは大概冷静だ。中庸になってしまうきらいもないではないが、信頼性は上がる。
そういう中で友人や、そのパーソナリティを読み解き信頼に足る人を自分で見つけてそれを自分のニュートラルラインにするというのは上手なやり方だ。それを選んだ自分への責任、というものが見えやすいのではないか、とも思う。

性善説だけでは世界は廻らない。が、Rettyは性善説のいいところを上手な着地点を見つけて生かしている、と感じる。SNSの世界一にならずとも、信頼をもとにした良質な顧客を集めることにつながり、それはビジネスとして土台の揺るぎなさに直結するだろう。

Rettyから目が離せない。