2015年7月15日水曜日

サイゼリヤにおいしいものを食べにいく、というはなし。

皆さんはファミリーレストランなど使ったりするだろうか。
どこにでもあって、値段もわかっていて、便利な場所だ。

例えばサイゼリヤ。みんなが知っているファミリーレストラン。それもセグメントとしてはお安めの方向。でもこれを下に見たりバカにしちゃあいけない。そう思っている。
わざと極端な例を挙げるというものではなく、ケレン味のつもりもなく。
サイゼリヤ、素直においしいと思うのだ。
なんといったらいいだろう、みんなが好きな味、でもちゃんとサイゼリヤというレストランの特徴を感じる味。世界観がある。それを上手に、こちらから迎えにいって楽しむ、というようなスタイルを考えてみるのは楽しいものだ。

どうにも世の中の多くの人は、楽しみ下手だと言わざるを得ない。

むやみにクラスを上げていって「ここから下は食べない、認めない」と肩を聳やかす人もいる。
逆に上も横も見ないで駐車場があって長居できるからという理由だけでファミリーレストランを選び、そこから他をみようとしない客もいる。そういう客とそういうわけではなくやってくる客が鉢合わせしてしまうところがファミリーレストランの弱点なのかもしれない。

サービスはすべてお店側が用意してそれをただ楽しむだけ、そう思っている人が多いのも気がかりだ。
向こうから全部やってくる、という考え方。上を向いてそちら以外は耳を傾けないというスタイル。
けれど、自分から気持ちをそちらに向ける、楽しい方に歩いてゆく、そういう、努力というほどのものではなく気持ちの切り替え、考え方一つで楽しみの幅とその受容量が増える、というやり方があるのを忘れている。
ようは思うこと、なのだろう。楽しく思う、楽しみに思う。ここにはじまりがある。
間違えてはいけないのが「楽しむ」のであって「楽しませてもらう」という考え方ではいけない、ということ。

本物の大人、本物の紳士はどんな場所でどんな食事を出されようとそれを楽しもうとするものだ。
そうありたいと思っている。

2015年7月11日土曜日

カメラをなくした。わかったことがあった。

カメラを紛失した。

イベントの帰り、湯島界隈ににクルマを止めてデリーで夕食とろうと思ったときに気がついた。クルマの中、どこを探しても見つからない。3分ほど考えてするりとあきらめた。あきらめがついた。そしてそんな自分に驚いたのだ。

強く思ったことは「ああ、今日のイベントで撮った動画と写真がオシャカだなあ。写真はWi-FiでiPhoneに7割方飛ばしておいたからいいけれど、動画がもったいなかったなあ。仕事の動画じゃなくてよかった」ということくらい。意外や、カメラ本体に執着していないことが自身でわかった。少し驚いた。

なくしたカメラ、いま手持ちのカメラで一番使用頻度が高く、ほぼ100%外出時に持って行く取り回しのいいコンパクトカメラ、CanonのS120というモデルだ。描写や性能も十分に満足していて仕事で大いに活躍してくれる。実用機だがシャンパンゴールドのボディにちょっと色気を出そうかとベージュのリザード型押しの張り革を施した。それなりに気に入っているのだ。


実は食事を終えてほどなくどこになくしたかを思い出して連絡、事なきを得たのだが、そのときの自分の心の動きで色々わかったことがあった。
カメラ本体には特に愛情を持っていないのではないか、ということ。
本当に重宝で、吐き出される画にも満足しており、小さくじゃまにならずで言うことがない。持っていても「いいカメラだね」と人に言われることも多い。
が。なんとなく、であるのだが本当に実用のための機械であって「これじゃないと困る」というよりこのレベルの画が得られなければ困る、と言う感。使用感とコンパクトさが変わらないのなら同等で他社のものでもいい、とさえ思う。めんどうなUIが変わってしまうことを除けば、だ。

このカメラの前にNikonのP310というカメラを使っていて、こちらはなんとなくモノとしても気に入っていた。こわれて同形の新しいモデルを買ったらどこかなにかしっくり来なくて使わなくなった。後継機でUIも変わらずすんなり受け入れられるかと思ったら、 どうも持った時の質感や重さが違うように感じてしまったのだ。3台も使うとそういう部分はわかってしまう。一部さわった感じが変化していたのはものとして気に入っていたはずの気持ちを削ぐものだった。

とにかくカメラは道具だ。わたしにとってはそういうものだ。忠実にいい仕事をしてくれるパートナーであることを望んでいるのだ。