2015年2月23日月曜日

下界と切り離される、一瞬。救いの場所は人それぞれが持っている。

ここに来てカウンターに座れば世界中の面倒から30分だけ切り離してもらえる。あなたはそういう救いの場所をお持ちだろうか。急にそんなこと言われても、と言わずに考えて欲しい。そういう喫茶店や食堂、行きつけの中にないだろうか?そこまで考えたことなかったなあ、という人も、言われてみれば、と思うところがあると思う。

ごく個人的にわたしにとって、という場所。
たとえば同じいつものレストラン。いつもの喫茶店。何気なく通い始めてそれほど思い入れもないんだけれど、もう20年。そんな場所。ないだろうか?10年も通っていれば、何気なく通っている店や場所がそういうものに知らぬ間になっているもの。無意識なんだけど、実はそういう場所だからこそ通っている、という言い方も出来るかもしれない。

わたしは神田神保町にそういう店を持っている。たった30分間のランチタイムで立ち寄る町のカレー店。食べて、黙って出てくるばかりのそんな店なのだが、解放や心の平穏がある場所だ。ただし、自分にとっての、自分だけの、であるが。


自分の好きな場所は自分の体験で決まる。自分だけが決める権利と自由を持っている。
たとえば食のSNSなどの点数で選んでいる輩はナンセンスではないのか。自分の経験の積み重ねで自分が幸せな、自分にとって塩梅がいい場所が作られる。飲食店評価サイト等を例えば使っても、いった先で「この店は合わない」とか「ここはこんなときに使おう」という蓄積をしていれば価値もあるだろう。聞こえてくる「点数低かったのにいいねここ、低い点数の店もたまにはいってみよう」とか「ここは点数が高いのに全然ダメだ。コスパが、、」とか。そういう会話が聞こえてきたらその人たちと食事に行くのはやめたほうがいい。特にコストパフォーマンスをコスパと縮めて使う連中には近づかない方がいいかもしれない。あなた次第、だ。


ただひとり、自分だけの基準を持つべきだ。あなた自身の基準を作ってもらいたい。積み重ねだ。そして、誰かのうわさでお店に行く時はその人と心を重ねてみてほしい。気持ちに余裕があるときに行ってみてほしい。だんだん外食で損をしなくなるはずだ。


2015年1月17日土曜日

エプソンのスモールプリンター。A4使えないけどこっちのほうがいいかもなあ。

少し前にこばやしかをる嬢のところでEPSONの新製品を使った。
A5までしか印刷できない小さなプリンターだった。PF-70、だったかな。

A5までしか印刷できない小さなプリンターだった。言い方を変えると2L印刷ができる小さなプリンター。
で、よーく考えてみれば、日々の中のA4印刷なんて請求書と見積もりを出すだけだった。そんなもんだった。
そうか、そうだよな。それでそういうのは特にやっておらず、写真がほとんどの人はこれがいいかもね、サイズ。じゃなきゃA3まで出せる小さいやつ。そのどっちかが、いま欲しいプリンターな気がしてる。プリンターってやつはどれもけっこうかさばって、ちょっと気持ちが落ちる。部屋に置くと思いのほか場所をとってがっかりする。なにしろディスプレイとかみたいに毎日電源を入れるものではないので、一層。なければないで済ませたい、くらいの気持ちだ。
これなら大きさ、合格だ。持とうと言う気になる。


このプリンタは背中にロールペーパーつけられて「今時なんだ?」と思ったらシールプリント。これがめっぽう楽しい。ヤバイ。プリントした写真とシールと。まったく価値観が違うんだよね。写真を写真として完結させるために選んで紙焼きの意識で印刷するのと、シールにするために選ぶのと。選ぶ内容が違う。価値がまったく違って、当たり前なんだけどそれがおもしろい。シールって、いいよね。

それと、こばやしかをる嬢とたくさん話した中で出て来たのだけど、プリントのL版ってあれは写真としての一番小さい単位、サイズだと思うのだけど、なにかっていうとハンドリング。持って歩いて人に手渡したり見せたり。あげたり。そういう用途のためのサイズだなって思う。そして2Lっていうサイズはここから初めて「作品」として通用するサイズ、飾るための最小単位のサイズなんじゃないかなっていう話し。そのどちらにも対応しているので写真趣味をスタートさせるのにとてもいい機械なんじゃないの、という話しになった。

いいじゃないこれ、おもしろいよ。

2014年12月26日金曜日

パーティーの名刺交換で仕事を「くれてやる」と言われた話し。

ちょいと前にパーティでとある人物と名刺交換をした時のこと。

どうやらその名刺を見ると彼は最近ぐんぐんと成長している映像関係から始まって総合メディア企業に大きく育った会社の社員らしい。その彼自身もなんだか勢いがある感じがした。

「なんかおもしろいこと書いてるんだったら載せてやるからよこしなよ。ギャラこんなもんでこれこれでオレの名前出せば云々、、」

なんてことを言われた。多少端折ったが、言っている内容と語調はわりとこのままの印象だった。
たぶん悪気はないんだろう。たぶん田舎者かヤンキー上がりかその両方か、ただそれだけで悪気はないんだろう。それは、よくわかる。気にもならない。

写真は本文と関係がありません。

僕は請われて動く仕事が好きだ。生意気だけど。
あなたにやってもらいたい、と言われるとうれしい。
そんなに自分から営業をかけない。だから時間がかかってはや50だ。だからこのやり方はあなたにはオススメをまったくしたくない。しかし、気持ち良く仕事をするだとかお互いに責任を持つ、なんてことの根っこがそこにある気がしてる。
相手の事を尊敬して話しを聞く。一緒にやりたいという共感を持って仕事をたのむ。
こちらもそれがわかるから、精一杯やる。責任を持つ、果たす。
理想ばかりではメシは食えない、だが、これがやはり思うところだ。わたしも仕事での失敗はする。そんな時は本当につらい。なにがつらいか。信頼や期待に答えて差し上げられなかった事に対する自責の苦しみ、つらさだ。

なにもないところに何かを生みだすというインターネット業界に多いみたいなんだが「あなたの宣伝になるからうちに載せてあげる。うち、インターネットの大看板。アクセスとかすごいよ。これ、好意ね。だからタダかスズメの涙でいいよね。だってあなたがタダで有名になっちゃうもん」そういう台詞を吐く人を今年もたくさん見た。
インターネットサイトは空っぽの入れ物だ。その中にいろいろな中身、コンテンツが入って初めてpvだ広告だってのが動き出す。からっぽじゃあなにもスタートしないのだ。器だけのお弁当が売れるところを見た事がない。穴ぼこだらけの幕の内弁当は誰も見向きをしないのだ。
中身を作れないから人に頼むのであろう。アウトソーシングだ外注先分散でコストを軽減だいう言い方をする人がいる。そんな薄っぺらなことを言っても仕方がない。要するに自分の会社でその部分を生み出す力を持っていないわけだ。流通だろうがネットだろうが生産の場所がなければなんにもなりゃあしない。ネットなど、物流がない世界だ。発信なぞ小学生でもやっている。

こんなことをいろいろ言っていると自分でも足下をすくわれる事もままあると思う。そう頭がいいわけではないので、でも承知でこんなことを言っている。
足をすくわれたときに、この文章に戻ってまたやり直す事が出来る強みが、わたしにはある。請われない場所には足を向けるつもりがない。


*追記
要約してみると「あんたの看板でオレが売れるんじゃなくて看板しかないあんたにオレがオレの看板含めて貸し出して中身入れてやる」って話し。生意気で申し訳なくも思う。ちゃんと心ある方々には。

2014年11月28日金曜日

また100円ショップでLightningを見つけた。こんどはダイソー「iPhone5対応充電専用ケーブル」

「ついに100円ショップでLightningを見つけた。「iPhone5対応充電専用MicroUSB変換アダプタ」」
なんていうタイトルでブログを書いたそばからこんどはケーブル「iPhone5対応USB充電専用ケーブル」なんてものを見つけた。
高円寺のルック商店街の100円ショップ ダイソーだ。
これまた何事もなくつるりと使えてしまっている。驚いた。いったいこの100円ショップってのは、どこでもうけを出しているんだろうなあ、、、


ついに100円ショップでLightningを見つけた。「iPhone5対応充電専用MicroUSB変換アダプタ」

もう現行機はiPhone6の時代になったので、5、5sときてはや2年半近く経った。 iPhoneとiPadの充電、同期ケーブルの規格がドックコネクタからライトニングに変わってから、だ。

ついにこの日がきた。

いつか実現されるのではないか、とずっと思っていたのだが、現実になるとやはり驚いてしまう。100円ショップでLightning-MicroUSB変換アダプタが販売されているのを見つけたのだ。なんということだろう。ほぼあきらめていたのだが。




ご存知の通りドックコネクタからライトニングケーブルに切り替わった時、コネクタの中にシリコンチップが内蔵された。認証用のものらしい。つまり偽造もの、MFI PROGRAM、Made for iPhoneの規格に沿った設計とAppleの認証を受けなければ商品として世に出せない、と言うあれだ。偽物も流通しているのは皆さんも知っていると思うが、あれらは当然アップルストアには並ばない。なにかトラブルがあったときに、それを作ったメーカーもAppleも一切保証をしてくれない、と言うことだ。

ドックコネクタ時代も条件は同じではあったが、認証チップを入れるという徹底はなかった。ところがAppleのエコシステムの中で大きな漁場でもあるサードパーティアクセサリー界。Appleがより強いコントロールに取りかかるのは予想できた。

それにしてもやっぱり便利ではなくなった。ドックコネクタ時代は100円ショップでケーブルが買えた。出先でケーブルをなくしたり忘れて来たりしたときに、ずいぶん助けられたものだ。ライトニングの時代になってそれが途絶えた。多くの人が嘆いているのを聞いて来た。Appleに恨み言を言うのはナンセンスであるが、それでもなにかひと言、は人情っていうものだ。

そんななか、巣鴨の駅前にある100円ショップシルクと言うチェーンの100円ショップにこれを発見した。驚いた。とにかく試さねば、と急ぎレジにもっていってさっそく接続してみることに。袋から変換コネクタを出して、驚いた。そのやけにぶかぶかと大きいサイズも驚いたのだが、コネクタの先端に愕然とした。

コネクタの、本来金属で出来た先端の挿入部分がグレーのプラスティックで出来ていたのだ。それだけなら「まあそんなものか、大胆だなあ」くらいの感想で済んでいたのだが。当然着いているべき金属接点、8接点の裏表で都合16の金属接点があるはずの先端部。なんと片面がなにもない。つんつるてんのプラスティックなのだ。表を返すと接点が8つに足らない。これは、、、

ふとコネクタの表面を見ると「UP SIDE」の表記。
確信犯である。

Lightningコネクタの特徴、メリットとはなんだったか。表裏、どちらで差し込んでもいいと言うこと。それだ。それを見事に捨てている。コストカットだろう。この思い切りはすごい。100円で実現、の執念を感じる。

結果からいうと若干不安定ではあるが、接続充電が出来る。出来るのだ。
外でバッテリーが弱くなって来て往生、ケーブルは持っていない、なので100円ショップに、という今までの「ああよかった。助かった。」がそのまま実現された。本当に心から助かる。

ただし、だ。

コネクタ先端はプラスティック、もしものときに折れたりする可能性が純正や認証品よりも高いはずだ。保証もない。そして電源まわり、人が思うよりもずっと繊細な部分である。iPhoneは今や10万円するコンピュータクラスの価格を誇る電子デバイスなのだ。こわしたら泣くに泣けない。チップもどうなっているかわからない。OSのバージョンアップで使えなくなることもあるだろう。

それでも、どうしようもないシチュエーションはやってくる。自己責任を念頭に、使ってみる、100円ショップにこれがあることを覚えておくのも一興だ。

2014年11月17日月曜日

ゾウのボタンのついたエンジのバッグ。「Triangle Commuter Bag,Berry」またの名を「ひらくPCバッグ」

カバンはどうも好きみたいで幾つも幾つも買ってしまう。
が、使うカバンというのはなんだかんだで「いつものやつ」になることが多い。

私はスーツを着ない、組織に属さず楽しくもダメな感じで日々を過ごし、じつはたっぷりと仕事もしているという人間だ。なので自ずカバンなどもスーツ寄りではなく、カジュアル寄り。レザーっていうよりターポリン。黒、グレーというより明るいアマガエル色、とかそういうチョイスになりがちだ。バッグも然り、洋服も然り。
そんな中、友人のジェットダイスケが使っている変わったバッグを見せてもらった。名前を「ひらくPCバッグ」というそうだ。
開発から発売までの経緯は実はFacebookや開発のご本人、いしたにまさきさんのブログで拝見していた。ジェットダイスケは早々に買って持ったようだった。

正直に書いてしまうが、心はまったく動かなかった。自分寄りではない、と感じたのだ。
機能。自立、考えられた重心位置と収納物のサイズ当たりのレイアウト、ショルダーストラップの角度や太さ等々。そういう緻密に考えられた機能の部分はいいな、と思った。だいいち収納を想定されているもの、ガジェット類や取材のための道具関係、そういう部分がドンピシャで。が、やっぱり買おう、にはならなかったのだ。

もう一回正直に書いてしまうが野暮ったく見えたのだ。
誰もが持ち物や服装にはこだわり、自分の哲学みたいなものを反映したいと思っているのじゃないだろうか。少なくとも私はそうだ。カジュアル路線、それも大人っぽかったりスマートなものを好まないまま来てしまっていて、苦労することも多い。そんな私が地味目でクラシックなものを持つというのはどうも気が引けた。そう、地味目でクラシック、上品と言い換えることが出来るだろう。そういう風に見えたのだ。だから悪いものではないわけだ。購買層が見えるようだった。私は残念、そこから外れているようだ。

しばらく使っているターポリン製の小型のメッセンジャーバッグ、大変に気に入っている。ミルクベルリンというドイツの小さなブランドのもの。めっぽう便利なのだ。
蓋はかぶせではなく上部のジッパーなので邪魔にならずにひとめで中のものを確認できる。色はキレイな緑色。取り回し良く丈夫なカバンだ。何よりも気に入っているのがそのサイズ。いいところMacBook Air11と小さなカメラに本一冊、それとiPad mini、財布と身の回りの小物。それでいっぱいだ。小さなカバンなのだ。

実はそのお気に入り。ジッパーがこわれかけてきた。困った。同じものを買おうか、と探し始めたところだった。それと、半年ほど前からなのだが、とある仕事でホテルや百貨店、きちんと上着を羽織らねばならないレストラン等に出入りが増えてきた。困った。服が変わるとアマガエル 色のカバンは少し持て余す。

そんな時だ。深夜だった。
Facebookのフィードでエンジの洒落たカバンの写真をみた。あ、いいな!なんだかピンときた。リンク先に飛んでみると「EVERNOTE Market」とあった。ゾウのマークのクラウドノートのEVERNOTEだ。

「Triangle Commuter Bag,Berry」

というのが商品名だった。


あれ?これは以前ジェットダイスケが見せてくれたあれじゃないか。おやおや。色が変わるとこんなに印象が変わるのか。野暮ったさは払拭されて、逆に洒落た感じがする。スーツをきない大人が持って合い等しい雰囲気が醸し出されている。で、スーツに合わせるのもいけそうだ。銀色のメタル製のゾウのマークのボタンもちょっといい。
5分も考えずに購入ボタンを押してクレジットカードの番号を打ち込んでしまった。

翌々日やってきたこのカバン、予想以上にいい。そして以前みた印象より、小さい。ここが大事だった。

私はほおっておくとバッグを大きなリュックサックにしたり特大のマンハッタンポーテージのメッセンジャーバッグなんぞをえらび、使いもしないカメラや読みもしない本を詰め込んで、その重さを支えるのに精一杯になってろくすっぽ仕事もせずに外出先から逃げ帰ったり、電車でいくべきところを車で楽に済ませて付き合いの酒が飲めなかったりと、いろいろな損を繰り返してきている。

それを是正すべく選んだのが緑色の小さなメッセンジャーバッグだった。持ち歩きの量を制限する為だ。カバンのサイズは制限をするべきだと思う。そして持ち物は厳選をするべきだ。「実は使わないもの」は多い。工夫で減る荷物をわざわざ減らすことなく背負うのは全くもってナンセンスだ。

荷物が減ることによって、例えば仕事が一つ余計に済ませられることがよくある。
荷物が減ることによって、例えば撮りたかった写真や動画が撮れたりすることもある。
負担が少ない、ということはその分アイディアが出たり集中力が上がったり、もう少し遠くへ、という体力が残ったりで、悪いことが一つもない。あなた自身、身ひとつで済むようなやり方に仕事をもっていくのもスマートだしいいだろう。
小さなカバンはそういう風に自分を持って行くための良い枠だと思って使い続けている。

もしかするとこの断面が三角のバッグ「なんで上の方が狭くなるんだ、もったいない」などいう輩もいるかもしれない。
が、考えて欲しい。普段カバンって真ん中から上、空いてるよね。底の方、カバンの高さの1/3くらいしか荷物、入れない気がしない?そんなにいつでもカバンをみっちりいっぱいにすることは少ないだろう。私はそう。
この「ひらくPCバッグ」もそういう風にして使うとよりスマートだ。
せっかく自立して動くオフィスにして使えるのだから物の上にまたものを入れてパンパンにして使うのはスマートではない。ひらく、見える、取り出す、のスムースな心地よさというのは、ちょっと代えがたい。

サイズが小さく、大人の男性が持て余さずスムースに取り扱えるサイズ感。
それに合わせて持ち物を厳選する。ちょっとした、センスの必要なゲームのようなものだろう。
そして黒、グレー、赤いふちに入ったものなどちょいと野暮ったかった色のラインナップにシャレたベージュ(ウィート)やエンジ(ベリー)が加わった。色はそのもののイメージを大きく変える要素だ。
エンジはただべったりしたものではなく、ファブリックの表情がちゃんとある。とてもいい。

あらら、初めの頃に「これいらない」と言っていた私は、すっかりこれを勧める側に立っていた。

これ、いいと思う。「いつものやつ」になりそうな予感がする。


2014年10月14日火曜日

YouTubeでラジオ。ラジオ「スパイスな日々」第13回。

YouTubeでラジオ、というスタイル、最近ではやっているひとをちらほら見かけるようになった。

YouTubeは動画のサービスという頭があるひとが多かろうが、実は動画サイトとして認識していない層が増えていると言う。中学生が中心だそうだ。彼ら彼女らはYouTubeを無料で聞ける音楽サイトとして認識し、ポケットの中にしまったスマートフォンからイヤフォンだけを出して音楽を聴く。そう、映像は見ていないのだ。

それと別の層で、しゃべり中心にYouTubeを活用していたクリエイターが長時間のおしゃべり番組のスタイルの中で、映像は見られていないことに気がつき、静止画をおいて音声だけにしてラジオスタイルに切り替える者、Podcastで積み上げたコンテンツを改めて静止画を一枚つけ、違うプラットフォーム、違う視聴者層を求めてYouTubeコンテンツとして再びアップロードする者などが出て来ており、おもしろくなっている。



わたしは、といえば「カレーのラジオ」というのを独り語りのスタイルで少しやってみたが

現在頓挫中。写真家のこばやしかをる氏と一緒に作っているプロジェクトから「はぴ3こばぽん☆のよくばりカメラプラス ラジオ「スパイスな日々」」という番組をはや13回、続けている。今回第13回目はゲストに写真家の須田誠さんとタレントの弓月ひろみさんを迎えての新宿の喫茶店での収録。なにかのついでに流しておいて、ながら聴きをしていただければありがたい。

1時間半を越える長尺だが、なかなかおもしろい話しが聞ける、と自負している。





2014年10月9日木曜日

ローカルルール。

わたしがラーメンを苦手になった一件というのがある。もちろんこれはこの店だけのそのときだけの話であろうとは思うのだが。

とある近所の有名ラーメン店に行った。初めての訪問だ。もやしの大盛りや追加のニンニクが有名なのだそうだ。若い人や身体を動かす仕事の人が好んで食べに行く濃いめの味付けと聞いていた。そういうのは結構好きだ。繁盛店のようで店の従業員のにいさんたちは一所懸命オーダーを回しているなあ、と見えた。
券売機があって、懐かしいプラスティック片がからんと出てくるあれだった。チャーシューのたくさん入った名物のラーメンであろうか、それを選んだ。

席に座って札をカウンターに出してラーメンを待つ。お客は皆一人客の様子で黙々とラーメンをすすっている。こういう雰囲気、嫌いではない。なんとなく、見ず知らずのお隣さんに同志、という感じを抱いてしまう。
さて、どうやら私のラーメンの番のようだ。出てきたラーメンはもやしが山のように積み上げられとても面白い。すごいなあ、と食べ始める。数分して店員がやってきて不機嫌そうな顔をこちらに向ける。

「困るんだよね、こういうの」

「え?」

なんのことかわからずぽかんとしていると、店員は続ける。

「券、裏返しておいただろ、これじゃあわからないだろう」

まだわたしには事態が理解できない。この店員は何を言っているのだろう。じっと彼の顔を見つめると、彼は眉をひそめてわたしの顔を一瞥すると黙って小皿に盛った数枚のチャーシューを無言で押し付けて去っていった。

そういうことか。

どうやら券売機のプラスチック札はそのメニュー名は文字では書かれておらず、色分けと模様(線)が入っているいないでそのお客のオーダーを見て料理を作っているらしい。件の札、なぜだかその線が表だけに入っているようなのだ。
周りのお客はこのやりとりを聞きながらじっとわたしの顔を見ている。わたしはピンときた。この店はそういうローカルルールとそれに痛い目にあったりその痛い目にあっている光景を見て自分ではやらないようにしているお客だけの店なのだ。なるほど、そうか。そういう店か。

なぜ裏にも線を入れぬのだ、など意見は一切言うつもりはない。言う必要もないだろう。この店はそういう店だ。それ以上でも以下でもないしそれを求めることはナンセンスだ。そして繁盛店でもある。このローカルルールでいいと思ったお客だけが通っているはずだ。それでお店が存続して、雑誌やメディアにも掲載されている。それでいい。
ただ、わたし個人としては親しい、仲の良い友人たちにだけはこのことを伝えて気を付ける旨、言っている。友人たちにそのひどい思いをしないで欲しいと思うからだ。それを聴いても何も思わない友人もいると思う。それなら大丈夫。食べに出かけるのもいいだろう。
若いあの店員はまだあの店で働いているのだろうか。彼はなぜそういう言葉を選び、他の選択肢を持たなかったのだろう。今でも考えることがある。

一時期ラーメンの業界で流行った、いや、広告代理店やメディアのあいだではやった、と言ったほうがいいだろう。はやりのスタイルがあった。
店主に腕組みをさせて、太いタオルを鉢巻にして身に付けさせ、ちょいとPhotoshopで眉を吊り上げたり汗を光らせたり。背中に炎を合成して。そういうイメージを作ってカップラーメンやポスターや媒体に使っていた。最近は少し収まったようだ。あの頃は随分ラーメンに光が当たってラーメンって面白い、と多くの人が注目をした。とてもいいなと思っていた。が。
同時にあのイメージ戦略は少々心配であった。

撮影が終わり、スタジオを出る時に店主たちは鉢巻を解き、腕もおろして普段の穏やかな彼らに戻る。メディアとの仕事は終わったからだ。
が、市井の人々はそうは思わない。あの店主は怖くて男らしくてサイコーだ、と熱狂する。店に行ってラーメンを食べ、そういう目で憧れとともに店主を見る。悪くない。食は体験だし極個人的なものだ。それを含めて味なので彼の店に行ったお客はそれによって満足感がいつも以上に高くなったであろう。あのポスターに出ていた店主が目の前で腕をふるっているのだ。それは最高だろう。
そういう客の中から「彼のような男になりたい。ラーメン店をやりたい!」という人間が出てくる。修行を積めばわかることもたくさんあるだろう。あのイメージは実は幻想だと気付くものも多いと思う。が、そうではなく、あのポスターの腕っ節が強くて恐そうな店主になりたくて突っ走って行くものも出ると思う。あこがれの店主は自分の店で淡々と自分のラーメンを追求しているのに、だ。
それがこわい。飲食業はそういうものではないと思っている。それほどあの広告イメージは強力だったし、しかしその効果が強かったことで弊害も出たのではないか。そうも思っている。
あの店のわかいおにいちゃんがそういうフォロワーであるかどうかはわからない。が、あれがまかり通る、店もやるし客もそれを許す、という場所の空気はわたしには少々居心地が悪い。あそこにはもう行けない。人にも薦めない。否定もしない。ただただ袖を分かった。それだけのことだ。

どうも、ラーメンが苦手になってしまったのだ。とても、残念だ。

2014年10月6日月曜日

写ルンですにすべてが詰まっていた。光と影と化学変化の、本物の写真のこと。

深夜のファミリーレストランでひとり、ニヤニヤとしながらテーブルいっぱいに紙焼きプリントをばらまいている。
ニヤニヤしている場合ではないのだ。締め切りをとうに過ぎてしまった写真展の出品作品を選ばねばならない、そんなギリギリのタイミングなのだ。が、ニヤニヤは止まらない。

紙焼き写真を選ぶというこの楽しさ。うっかり忘れていた。大変なことだ。もったいない、こんなに楽しかったんだなあ。忘れてたなあ。
そして、フィルム写真なんて億劫だ、と思っていたことがぜんぜん間違いなのを今晩、安っぽい味のコーヒーをすすりながらこんな場所で思い知る。
「写ルンです」があるじゃないか。そうだよ「写ルンです」だよ。こんないいものがあるじゃないか。こんなにいいものなのか。まいったな。そして写ルンですは現役にして現代、最大のフィルム消費を司るカメラかもしれないなのだ。


このテーブルにばらまかれた写真は写ルンですで撮ったもの。
あのレンズ付きフィルムっての、意外や上出来の写真を撮ることができるのだ。本物の写真を、だぜ。本物の。ちゃんとレンズを通った光がほんのちょっとのあいだだけフィルムに当たって、感光して。そいつをラボで現像、科学変化の賜物である現像ってのを行って、パトローネの中身がネガフィルムになる。そいつを紙に「焼き付ける」のだ。印刷では決してないのだよ。「印画」、なのだ。

なんと楽しいことか。
写真を選びながら、この写真のこの時の天気や光はどうだったかな、とかこれは青くなっちゃったな、こっちは赤いな、とかひとり考えたりメモしたり。そういうの、ほんのちょっと前までやってたでしょ。写真マニアじゃなくても、お父さんやおばあちゃんだってやっていたはず。そういうのを色々思い出して、どんどん楽しくなっていく。想像力や集中力や、一射の大事さや。忘れてたけどそういうのを思い出した。
撮ってね、撮ったんだけど何を撮ったか忘れてさ、現像して「ああ、そうだそうだ!」なんてなったり。全部写ルンですで体験できるのだ。こりゃたまらない。
この単純かつ大胆なプロダクトは今だにその輝きを失わないまま、大方の人には見向きをされずに、それでもスーパーマーケットや観光地のみやげ物屋なんかにぶら下げられて使ってくれるカメラマンを待っている。

当事者じゃない人にはまったく透明なものとして受け取られてしまう「写ルンです」
しかしニーズはあるのだ。デジカメになって困っている人はたくさんいる。デジカメ自体がよくわからない人。使い慣れたフィルム、現像に出したりする行程を面倒ともなんとも思わずそのまま使い続けている層。写真は紙に焼くのが当たり前だと思っている層。そういう人たちが独り占めしているこの楽しさを、写ルンですで取り戻すのは、これはなかなかの快感だ。
そして、昔の流儀で写真を撮ってから、もう一度デジタルカメラに戻ってみると、写真の上手い撮り方がわかってしまうのだ。
試してみて、損はない。ほんとうだからさ、ためしてごらん。

2014年9月20日土曜日

賄い飯のないレストラン。

聞いたところによるとチェーンレストランの大手のいくつかは賄い飯がないのだそうだ。誠に現代風で、まあそうだろうな、と思うところある。が、真逆にそれはどうなのだろう、と思うところもある。

飲食の現場は戦争だ。戦いだ。厨房内の作業、調理は重労働で危険も多い。汗も冷や汗もかくことの多い現場だ。ホール業務もお客と接する真剣な現場で神経がすり減るものだ。どちらも同じく大変なのだ。
そういう中、賄い飯という素晴らしいものがあると励みになることは、少し考えれば理解できるだろう。

写真は本文とは関係ありません
ただメシを食らう、という行為とは少しニュアンスが違うのが賄い飯だ。それは研鑽の場でもある。新人の、皿洗いをそろそろ卒業するようなコックの見習いがここまで密かに勉強し、先輩の技を盗み取り、誰に言われるともなくやってきた調理の練習の成果を先輩諸氏に審判を受けるという場所なのだ。
あり合わせでかつ使っても支障のない材料を考え、アイディアを出し、時間を気にしながら作り上げて食べてもらい、そして指導を受ける。大切な修業の場所だ。
これがなければわざわざ研修場所を別で作らねばならず、また、はい研修です、でやる調理では得られない、尊いものが得られるのだ。

なにしろ先輩方の食事である。緊張感が違う。飲食の現場は皆さんが考えるよりも多少荒っぽい場所だ。立ち仕事で、くたくたになるまで働く現場での唯一の楽しみの時間。そのメインたる食事がうまくなければ現場の空気さえこわしてしまうことになりかねぬ。慎重に、真剣に、そして手早く。それが日々続いて研鑽となる。相手があっての自分の料理、という意識も生まれてくる。大変に大事なことだと思う。

飲食に従事するものも、また飲食ではなくとも自らそういう伝統、決まりがある場所を選んで働くことは尊い。
ただ日々マニュアルを見て手を動かすのではなく、自分で考え、動き、それを積んで店でも会社でもない、自分の経験、蓄積としていく、それができる場所を自分でえらぶのだ。そこで得たものは、まぎれもなく自分のものになる。

チェーンだ大手だではムリもあるかもしれない。が、大手だチェーンだ、だからこそ、自分の市場を育てることをせねばいけないのではないだろうか。資源は取り尽くしたらおしまいだ。企業は、社会は文化の上に成り立っている。その文化を自分たちで守り育てないと息の長い商売は出来ないのではないだろうか。商売というスケールではない。食の話しは人としての存亡というところまで考えてもいい話しではないかな、と思うところがある。