2011年12月1日木曜日

カメラ。機械と自分の身体が呼び起こす、過去の記憶と心の震え。


友人たちと立ち寄った中古カメラ店でその記憶は蘇った。


好きか嫌いか、と言われればカメラは、好きだ。
友人たちの熱狂や深い知識に比べるべくもない程度ではあるが、やはりカメラは好きだ。
写真を撮ることも好きなのだが、カメラ自体が好きだ。
小さく、精密な機械というものは心踊らされるものがある。



彼らと町のこぎれいな中古カメラ店に何気なく立ち寄った。

ジャンクのラベルがついた70年代後半のコンパクトカメラ、OLYMPUS XAに心動かされたり、90年代の浮かれた時代の流れの中で出てきたカメラのデザインをぶち壊そうと躍起になっていた頃のカメラが新鮮に見えたり。まだまだ現役のマイクロフォーサース規格のボディの安さに驚愕したり考えこんだり。



そうやって楽しんでいると、突然体が持っていかれるような感覚がやってきて、いったいどうしたのだろう、と自分の体調を訝しく思った。
程なくめまいではないのだ、と気がついたのは、ショーケースの中段の端にひっそりと置かれたカメラから目が離せなくなっていた自分に気がついたから。正確にはそのカメラが目に飛び込んでから、両の手先におかしな感覚、はっきりと体が覚えている不思議な感覚が突然蘇った。


そのカメラは学生の頃、親父が貸してくれていた古いカメラ。
OLYMPUS 35RC
小さな、何の変哲もない35mmフィルムを使うカメラ。

どれくらいの期間使ったかさえ、思い出せない。
そんな、その存在さえ記憶の澱みの底に沈み、泡ひとつ浮き上がってもこなかったような、カメラ。

ショーケースに近づいた時にオレンジ色のフィルムカウンター窓の矢印が目に飛び込んできた。
見えてはいないのに突然その窓の奥のカウンターの数字フォントまでありありと思い出した。


シャッターボタンのレリーズ用ねじ切りを見てシャッターに指をかけた時の、押し込む時の重さを思い出した。
シャッタースピードのダイヤルを操作した時のクリック感、レンズ上のセルフタイマーレバーの重さとゼンマイの音、巻き上げレバーの操作感、シボの手触り、、、

ガラスのショーウインドウの中にあるそれを、あたかも手のひらに置き、操作しているような感覚を覚えたのだ。

圧倒的な体験だった。
生々しい記憶が突然手元にやって来て、めまいさえ感じた。



思い出が、いや、思い出なのかな、これは?
そのカメラを操作した記憶が奔流のように蘇り、うねり、ひととき本当に他のことが考えられなくなった。夢を見ているようであった。
何を撮ったか、どこに持って出かけたか。
そちらは全く思い出せなかった。ただ、カメラとそれを操作する自分だけが鮮烈に思い起こされた。


シリコンでもなく、エレクトロニックでもなく。
操作したダイヤルの奥に潜む歯車が、そのまた奥にある歯車に、順番にカメラ自身に物理的に伝えていく、あの感覚。


たとえばオートバイ。


スロットルを開いた時に、スロットルワイヤーがスロットルグリップに巻き込まれ、引っ張られ。ワイヤーとリンケージをたどってカービュレーターのフロートにつながって。
ガソリンの噴霧量が増えて、エンジンが吼えて。そういう物理的で想像が容易な、機械が動く様。



それは多分、道具を手で覚えた、体が覚えた、その記憶。
手の記憶。機械と分かち合った、感触、という記憶。


いま自分が持ち歩き、使っているガジェットたち。
同じように30年後、こういう体験をさせてくれるのだろうか。

手元に置いて使うもの。
選ぶなら、そういうものをあとでもたらしてくれるようなものを選んでみるといい。

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