2014年12月26日金曜日

パーティーの名刺交換で仕事を「くれてやる」と言われた話し。

ちょいと前にパーティでとある人物と名刺交換をした時のこと。

どうやらその名刺を見ると彼は最近ぐんぐんと成長している映像関係から始まって総合メディア企業に大きく育った会社の社員らしい。その彼自身もなんだか勢いがある感じがした。

「なんかおもしろいこと書いてるんだったら載せてやるからよこしなよ。ギャラこんなもんでこれこれでオレの名前出せば云々、、」

なんてことを言われた。多少端折ったが、言っている内容と語調はわりとこのままの印象だった。
たぶん悪気はないんだろう。たぶん田舎者かヤンキー上がりかその両方か、ただそれだけで悪気はないんだろう。それは、よくわかる。気にもならない。

写真は本文と関係がありません。

僕は請われて動く仕事が好きだ。生意気だけど。
あなたにやってもらいたい、と言われるとうれしい。
そんなに自分から営業をかけない。だから時間がかかってはや50だ。だからこのやり方はあなたにはオススメをまったくしたくない。しかし、気持ち良く仕事をするだとかお互いに責任を持つ、なんてことの根っこがそこにある気がしてる。
相手の事を尊敬して話しを聞く。一緒にやりたいという共感を持って仕事をたのむ。
こちらもそれがわかるから、精一杯やる。責任を持つ、果たす。
理想ばかりではメシは食えない、だが、これがやはり思うところだ。わたしも仕事での失敗はする。そんな時は本当につらい。なにがつらいか。信頼や期待に答えて差し上げられなかった事に対する自責の苦しみ、つらさだ。

なにもないところに何かを生みだすというインターネット業界に多いみたいなんだが「あなたの宣伝になるからうちに載せてあげる。うち、インターネットの大看板。アクセスとかすごいよ。これ、好意ね。だからタダかスズメの涙でいいよね。だってあなたがタダで有名になっちゃうもん」そういう台詞を吐く人を今年もたくさん見た。
インターネットサイトは空っぽの入れ物だ。その中にいろいろな中身、コンテンツが入って初めてpvだ広告だってのが動き出す。からっぽじゃあなにもスタートしないのだ。器だけのお弁当が売れるところを見た事がない。穴ぼこだらけの幕の内弁当は誰も見向きをしないのだ。
中身を作れないから人に頼むのであろう。アウトソーシングだ外注先分散でコストを軽減だいう言い方をする人がいる。そんな薄っぺらなことを言っても仕方がない。要するに自分の会社でその部分を生み出す力を持っていないわけだ。流通だろうがネットだろうが生産の場所がなければなんにもなりゃあしない。ネットなど、物流がない世界だ。発信なぞ小学生でもやっている。

こんなことをいろいろ言っていると自分でも足下をすくわれる事もままあると思う。そう頭がいいわけではないので、でも承知でこんなことを言っている。
足をすくわれたときに、この文章に戻ってまたやり直す事が出来る強みが、わたしにはある。請われない場所には足を向けるつもりがない。


*追記
要約してみると「あんたの看板でオレが売れるんじゃなくて看板しかないあんたにオレがオレの看板含めて貸し出して中身入れてやる」って話し。生意気で申し訳なくも思う。ちゃんと心ある方々には。

2014年11月28日金曜日

また100円ショップでLightningを見つけた。こんどはダイソー「iPhone5対応充電専用ケーブル」

「ついに100円ショップでLightningを見つけた。「iPhone5対応充電専用MicroUSB変換アダプタ」」
なんていうタイトルでブログを書いたそばからこんどはケーブル「iPhone5対応USB充電専用ケーブル」なんてものを見つけた。
高円寺のルック商店街の100円ショップ ダイソーだ。
これまた何事もなくつるりと使えてしまっている。驚いた。いったいこの100円ショップってのは、どこでもうけを出しているんだろうなあ、、、


ついに100円ショップでLightningを見つけた。「iPhone5対応充電専用MicroUSB変換アダプタ」

もう現行機はiPhone6の時代になったので、5、5sときてはや2年半近く経った。 iPhoneとiPadの充電、同期ケーブルの規格がドックコネクタからライトニングに変わってから、だ。

ついにこの日がきた。

いつか実現されるのではないか、とずっと思っていたのだが、現実になるとやはり驚いてしまう。100円ショップでLightning-MicroUSB変換アダプタが販売されているのを見つけたのだ。なんということだろう。ほぼあきらめていたのだが。




ご存知の通りドックコネクタからライトニングケーブルに切り替わった時、コネクタの中にシリコンチップが内蔵された。認証用のものらしい。つまり偽造もの、MFI PROGRAM、Made for iPhoneの規格に沿った設計とAppleの認証を受けなければ商品として世に出せない、と言うあれだ。偽物も流通しているのは皆さんも知っていると思うが、あれらは当然アップルストアには並ばない。なにかトラブルがあったときに、それを作ったメーカーもAppleも一切保証をしてくれない、と言うことだ。

ドックコネクタ時代も条件は同じではあったが、認証チップを入れるという徹底はなかった。ところがAppleのエコシステムの中で大きな漁場でもあるサードパーティアクセサリー界。Appleがより強いコントロールに取りかかるのは予想できた。

それにしてもやっぱり便利ではなくなった。ドックコネクタ時代は100円ショップでケーブルが買えた。出先でケーブルをなくしたり忘れて来たりしたときに、ずいぶん助けられたものだ。ライトニングの時代になってそれが途絶えた。多くの人が嘆いているのを聞いて来た。Appleに恨み言を言うのはナンセンスであるが、それでもなにかひと言、は人情っていうものだ。

そんななか、巣鴨の駅前にある100円ショップシルクと言うチェーンの100円ショップにこれを発見した。驚いた。とにかく試さねば、と急ぎレジにもっていってさっそく接続してみることに。袋から変換コネクタを出して、驚いた。そのやけにぶかぶかと大きいサイズも驚いたのだが、コネクタの先端に愕然とした。

コネクタの、本来金属で出来た先端の挿入部分がグレーのプラスティックで出来ていたのだ。それだけなら「まあそんなものか、大胆だなあ」くらいの感想で済んでいたのだが。当然着いているべき金属接点、8接点の裏表で都合16の金属接点があるはずの先端部。なんと片面がなにもない。つんつるてんのプラスティックなのだ。表を返すと接点が8つに足らない。これは、、、

ふとコネクタの表面を見ると「UP SIDE」の表記。
確信犯である。

Lightningコネクタの特徴、メリットとはなんだったか。表裏、どちらで差し込んでもいいと言うこと。それだ。それを見事に捨てている。コストカットだろう。この思い切りはすごい。100円で実現、の執念を感じる。

結果からいうと若干不安定ではあるが、接続充電が出来る。出来るのだ。
外でバッテリーが弱くなって来て往生、ケーブルは持っていない、なので100円ショップに、という今までの「ああよかった。助かった。」がそのまま実現された。本当に心から助かる。

ただし、だ。

コネクタ先端はプラスティック、もしものときに折れたりする可能性が純正や認証品よりも高いはずだ。保証もない。そして電源まわり、人が思うよりもずっと繊細な部分である。iPhoneは今や10万円するコンピュータクラスの価格を誇る電子デバイスなのだ。こわしたら泣くに泣けない。チップもどうなっているかわからない。OSのバージョンアップで使えなくなることもあるだろう。

それでも、どうしようもないシチュエーションはやってくる。自己責任を念頭に、使ってみる、100円ショップにこれがあることを覚えておくのも一興だ。

2014年11月17日月曜日

ゾウのボタンのついたエンジのバッグ。「Triangle Commuter Bag,Berry」またの名を「ひらくPCバッグ」

カバンはどうも好きみたいで幾つも幾つも買ってしまう。
が、使うカバンというのはなんだかんだで「いつものやつ」になることが多い。

私はスーツを着ない、組織に属さず楽しくもダメな感じで日々を過ごし、じつはたっぷりと仕事もしているという人間だ。なので自ずカバンなどもスーツ寄りではなく、カジュアル寄り。レザーっていうよりターポリン。黒、グレーというより明るいアマガエル色、とかそういうチョイスになりがちだ。バッグも然り、洋服も然り。
そんな中、友人のジェットダイスケが使っている変わったバッグを見せてもらった。名前を「ひらくPCバッグ」というそうだ。
開発から発売までの経緯は実はFacebookや開発のご本人、いしたにまさきさんのブログで拝見していた。ジェットダイスケは早々に買って持ったようだった。

正直に書いてしまうが、心はまったく動かなかった。自分寄りではない、と感じたのだ。
機能。自立、考えられた重心位置と収納物のサイズ当たりのレイアウト、ショルダーストラップの角度や太さ等々。そういう緻密に考えられた機能の部分はいいな、と思った。だいいち収納を想定されているもの、ガジェット類や取材のための道具関係、そういう部分がドンピシャで。が、やっぱり買おう、にはならなかったのだ。

もう一回正直に書いてしまうが野暮ったく見えたのだ。
誰もが持ち物や服装にはこだわり、自分の哲学みたいなものを反映したいと思っているのじゃないだろうか。少なくとも私はそうだ。カジュアル路線、それも大人っぽかったりスマートなものを好まないまま来てしまっていて、苦労することも多い。そんな私が地味目でクラシックなものを持つというのはどうも気が引けた。そう、地味目でクラシック、上品と言い換えることが出来るだろう。そういう風に見えたのだ。だから悪いものではないわけだ。購買層が見えるようだった。私は残念、そこから外れているようだ。

しばらく使っているターポリン製の小型のメッセンジャーバッグ、大変に気に入っている。ミルクベルリンというドイツの小さなブランドのもの。めっぽう便利なのだ。
蓋はかぶせではなく上部のジッパーなので邪魔にならずにひとめで中のものを確認できる。色はキレイな緑色。取り回し良く丈夫なカバンだ。何よりも気に入っているのがそのサイズ。いいところMacBook Air11と小さなカメラに本一冊、それとiPad mini、財布と身の回りの小物。それでいっぱいだ。小さなカバンなのだ。

実はそのお気に入り。ジッパーがこわれかけてきた。困った。同じものを買おうか、と探し始めたところだった。それと、半年ほど前からなのだが、とある仕事でホテルや百貨店、きちんと上着を羽織らねばならないレストラン等に出入りが増えてきた。困った。服が変わるとアマガエル 色のカバンは少し持て余す。

そんな時だ。深夜だった。
Facebookのフィードでエンジの洒落たカバンの写真をみた。あ、いいな!なんだかピンときた。リンク先に飛んでみると「EVERNOTE Market」とあった。ゾウのマークのクラウドノートのEVERNOTEだ。

「Triangle Commuter Bag,Berry」

というのが商品名だった。


あれ?これは以前ジェットダイスケが見せてくれたあれじゃないか。おやおや。色が変わるとこんなに印象が変わるのか。野暮ったさは払拭されて、逆に洒落た感じがする。スーツをきない大人が持って合い等しい雰囲気が醸し出されている。で、スーツに合わせるのもいけそうだ。銀色のメタル製のゾウのマークのボタンもちょっといい。
5分も考えずに購入ボタンを押してクレジットカードの番号を打ち込んでしまった。

翌々日やってきたこのカバン、予想以上にいい。そして以前みた印象より、小さい。ここが大事だった。

私はほおっておくとバッグを大きなリュックサックにしたり特大のマンハッタンポーテージのメッセンジャーバッグなんぞをえらび、使いもしないカメラや読みもしない本を詰め込んで、その重さを支えるのに精一杯になってろくすっぽ仕事もせずに外出先から逃げ帰ったり、電車でいくべきところを車で楽に済ませて付き合いの酒が飲めなかったりと、いろいろな損を繰り返してきている。

それを是正すべく選んだのが緑色の小さなメッセンジャーバッグだった。持ち歩きの量を制限する為だ。カバンのサイズは制限をするべきだと思う。そして持ち物は厳選をするべきだ。「実は使わないもの」は多い。工夫で減る荷物をわざわざ減らすことなく背負うのは全くもってナンセンスだ。

荷物が減ることによって、例えば仕事が一つ余計に済ませられることがよくある。
荷物が減ることによって、例えば撮りたかった写真や動画が撮れたりすることもある。
負担が少ない、ということはその分アイディアが出たり集中力が上がったり、もう少し遠くへ、という体力が残ったりで、悪いことが一つもない。あなた自身、身ひとつで済むようなやり方に仕事をもっていくのもスマートだしいいだろう。
小さなカバンはそういう風に自分を持って行くための良い枠だと思って使い続けている。

もしかするとこの断面が三角のバッグ「なんで上の方が狭くなるんだ、もったいない」などいう輩もいるかもしれない。
が、考えて欲しい。普段カバンって真ん中から上、空いてるよね。底の方、カバンの高さの1/3くらいしか荷物、入れない気がしない?そんなにいつでもカバンをみっちりいっぱいにすることは少ないだろう。私はそう。
この「ひらくPCバッグ」もそういう風にして使うとよりスマートだ。
せっかく自立して動くオフィスにして使えるのだから物の上にまたものを入れてパンパンにして使うのはスマートではない。ひらく、見える、取り出す、のスムースな心地よさというのは、ちょっと代えがたい。

サイズが小さく、大人の男性が持て余さずスムースに取り扱えるサイズ感。
それに合わせて持ち物を厳選する。ちょっとした、センスの必要なゲームのようなものだろう。
そして黒、グレー、赤いふちに入ったものなどちょいと野暮ったかった色のラインナップにシャレたベージュ(ウィート)やエンジ(ベリー)が加わった。色はそのもののイメージを大きく変える要素だ。
エンジはただべったりしたものではなく、ファブリックの表情がちゃんとある。とてもいい。

あらら、初めの頃に「これいらない」と言っていた私は、すっかりこれを勧める側に立っていた。

これ、いいと思う。「いつものやつ」になりそうな予感がする。


2014年10月14日火曜日

YouTubeでラジオ。ラジオ「スパイスな日々」第13回。

YouTubeでラジオ、というスタイル、最近ではやっているひとをちらほら見かけるようになった。

YouTubeは動画のサービスという頭があるひとが多かろうが、実は動画サイトとして認識していない層が増えていると言う。中学生が中心だそうだ。彼ら彼女らはYouTubeを無料で聞ける音楽サイトとして認識し、ポケットの中にしまったスマートフォンからイヤフォンだけを出して音楽を聴く。そう、映像は見ていないのだ。

それと別の層で、しゃべり中心にYouTubeを活用していたクリエイターが長時間のおしゃべり番組のスタイルの中で、映像は見られていないことに気がつき、静止画をおいて音声だけにしてラジオスタイルに切り替える者、Podcastで積み上げたコンテンツを改めて静止画を一枚つけ、違うプラットフォーム、違う視聴者層を求めてYouTubeコンテンツとして再びアップロードする者などが出て来ており、おもしろくなっている。



わたしは、といえば「カレーのラジオ」というのを独り語りのスタイルで少しやってみたが

現在頓挫中。写真家のこばやしかをる氏と一緒に作っているプロジェクトから「はぴ3こばぽん☆のよくばりカメラプラス ラジオ「スパイスな日々」」という番組をはや13回、続けている。今回第13回目はゲストに写真家の須田誠さんとタレントの弓月ひろみさんを迎えての新宿の喫茶店での収録。なにかのついでに流しておいて、ながら聴きをしていただければありがたい。

1時間半を越える長尺だが、なかなかおもしろい話しが聞ける、と自負している。





2014年10月9日木曜日

ローカルルール。

わたしがラーメンを苦手になった一件というのがある。もちろんこれはこの店だけのそのときだけの話であろうとは思うのだが。

とある近所の有名ラーメン店に行った。初めての訪問だ。もやしの大盛りや追加のニンニクが有名なのだそうだ。若い人や身体を動かす仕事の人が好んで食べに行く濃いめの味付けと聞いていた。そういうのは結構好きだ。繁盛店のようで店の従業員のにいさんたちは一所懸命オーダーを回しているなあ、と見えた。
券売機があって、懐かしいプラスティック片がからんと出てくるあれだった。チャーシューのたくさん入った名物のラーメンであろうか、それを選んだ。

席に座って札をカウンターに出してラーメンを待つ。お客は皆一人客の様子で黙々とラーメンをすすっている。こういう雰囲気、嫌いではない。なんとなく、見ず知らずのお隣さんに同志、という感じを抱いてしまう。
さて、どうやら私のラーメンの番のようだ。出てきたラーメンはもやしが山のように積み上げられとても面白い。すごいなあ、と食べ始める。数分して店員がやってきて不機嫌そうな顔をこちらに向ける。

「困るんだよね、こういうの」

「え?」

なんのことかわからずぽかんとしていると、店員は続ける。

「券、裏返しておいただろ、これじゃあわからないだろう」

まだわたしには事態が理解できない。この店員は何を言っているのだろう。じっと彼の顔を見つめると、彼は眉をひそめてわたしの顔を一瞥すると黙って小皿に盛った数枚のチャーシューを無言で押し付けて去っていった。

そういうことか。

どうやら券売機のプラスチック札はそのメニュー名は文字では書かれておらず、色分けと模様(線)が入っているいないでそのお客のオーダーを見て料理を作っているらしい。件の札、なぜだかその線が表だけに入っているようなのだ。
周りのお客はこのやりとりを聞きながらじっとわたしの顔を見ている。わたしはピンときた。この店はそういうローカルルールとそれに痛い目にあったりその痛い目にあっている光景を見て自分ではやらないようにしているお客だけの店なのだ。なるほど、そうか。そういう店か。

なぜ裏にも線を入れぬのだ、など意見は一切言うつもりはない。言う必要もないだろう。この店はそういう店だ。それ以上でも以下でもないしそれを求めることはナンセンスだ。そして繁盛店でもある。このローカルルールでいいと思ったお客だけが通っているはずだ。それでお店が存続して、雑誌やメディアにも掲載されている。それでいい。
ただ、わたし個人としては親しい、仲の良い友人たちにだけはこのことを伝えて気を付ける旨、言っている。友人たちにそのひどい思いをしないで欲しいと思うからだ。それを聴いても何も思わない友人もいると思う。それなら大丈夫。食べに出かけるのもいいだろう。
若いあの店員はまだあの店で働いているのだろうか。彼はなぜそういう言葉を選び、他の選択肢を持たなかったのだろう。今でも考えることがある。

一時期ラーメンの業界で流行った、いや、広告代理店やメディアのあいだではやった、と言ったほうがいいだろう。はやりのスタイルがあった。
店主に腕組みをさせて、太いタオルを鉢巻にして身に付けさせ、ちょいとPhotoshopで眉を吊り上げたり汗を光らせたり。背中に炎を合成して。そういうイメージを作ってカップラーメンやポスターや媒体に使っていた。最近は少し収まったようだ。あの頃は随分ラーメンに光が当たってラーメンって面白い、と多くの人が注目をした。とてもいいなと思っていた。が。
同時にあのイメージ戦略は少々心配であった。

撮影が終わり、スタジオを出る時に店主たちは鉢巻を解き、腕もおろして普段の穏やかな彼らに戻る。メディアとの仕事は終わったからだ。
が、市井の人々はそうは思わない。あの店主は怖くて男らしくてサイコーだ、と熱狂する。店に行ってラーメンを食べ、そういう目で憧れとともに店主を見る。悪くない。食は体験だし極個人的なものだ。それを含めて味なので彼の店に行ったお客はそれによって満足感がいつも以上に高くなったであろう。あのポスターに出ていた店主が目の前で腕をふるっているのだ。それは最高だろう。
そういう客の中から「彼のような男になりたい。ラーメン店をやりたい!」という人間が出てくる。修行を積めばわかることもたくさんあるだろう。あのイメージは実は幻想だと気付くものも多いと思う。が、そうではなく、あのポスターの腕っ節が強くて恐そうな店主になりたくて突っ走って行くものも出ると思う。あこがれの店主は自分の店で淡々と自分のラーメンを追求しているのに、だ。
それがこわい。飲食業はそういうものではないと思っている。それほどあの広告イメージは強力だったし、しかしその効果が強かったことで弊害も出たのではないか。そうも思っている。
あの店のわかいおにいちゃんがそういうフォロワーであるかどうかはわからない。が、あれがまかり通る、店もやるし客もそれを許す、という場所の空気はわたしには少々居心地が悪い。あそこにはもう行けない。人にも薦めない。否定もしない。ただただ袖を分かった。それだけのことだ。

どうも、ラーメンが苦手になってしまったのだ。とても、残念だ。

2014年10月6日月曜日

写ルンですにすべてが詰まっていた。光と影と化学変化の、本物の写真のこと。

深夜のファミリーレストランでひとり、ニヤニヤとしながらテーブルいっぱいに紙焼きプリントをばらまいている。
ニヤニヤしている場合ではないのだ。締め切りをとうに過ぎてしまった写真展の出品作品を選ばねばならない、そんなギリギリのタイミングなのだ。が、ニヤニヤは止まらない。

紙焼き写真を選ぶというこの楽しさ。うっかり忘れていた。大変なことだ。もったいない、こんなに楽しかったんだなあ。忘れてたなあ。
そして、フィルム写真なんて億劫だ、と思っていたことがぜんぜん間違いなのを今晩、安っぽい味のコーヒーをすすりながらこんな場所で思い知る。
「写ルンです」があるじゃないか。そうだよ「写ルンです」だよ。こんないいものがあるじゃないか。こんなにいいものなのか。まいったな。そして写ルンですは現役にして現代、最大のフィルム消費を司るカメラかもしれないなのだ。


このテーブルにばらまかれた写真は写ルンですで撮ったもの。
あのレンズ付きフィルムっての、意外や上出来の写真を撮ることができるのだ。本物の写真を、だぜ。本物の。ちゃんとレンズを通った光がほんのちょっとのあいだだけフィルムに当たって、感光して。そいつをラボで現像、科学変化の賜物である現像ってのを行って、パトローネの中身がネガフィルムになる。そいつを紙に「焼き付ける」のだ。印刷では決してないのだよ。「印画」、なのだ。

なんと楽しいことか。
写真を選びながら、この写真のこの時の天気や光はどうだったかな、とかこれは青くなっちゃったな、こっちは赤いな、とかひとり考えたりメモしたり。そういうの、ほんのちょっと前までやってたでしょ。写真マニアじゃなくても、お父さんやおばあちゃんだってやっていたはず。そういうのを色々思い出して、どんどん楽しくなっていく。想像力や集中力や、一射の大事さや。忘れてたけどそういうのを思い出した。
撮ってね、撮ったんだけど何を撮ったか忘れてさ、現像して「ああ、そうだそうだ!」なんてなったり。全部写ルンですで体験できるのだ。こりゃたまらない。
この単純かつ大胆なプロダクトは今だにその輝きを失わないまま、大方の人には見向きをされずに、それでもスーパーマーケットや観光地のみやげ物屋なんかにぶら下げられて使ってくれるカメラマンを待っている。

当事者じゃない人にはまったく透明なものとして受け取られてしまう「写ルンです」
しかしニーズはあるのだ。デジカメになって困っている人はたくさんいる。デジカメ自体がよくわからない人。使い慣れたフィルム、現像に出したりする行程を面倒ともなんとも思わずそのまま使い続けている層。写真は紙に焼くのが当たり前だと思っている層。そういう人たちが独り占めしているこの楽しさを、写ルンですで取り戻すのは、これはなかなかの快感だ。
そして、昔の流儀で写真を撮ってから、もう一度デジタルカメラに戻ってみると、写真の上手い撮り方がわかってしまうのだ。
試してみて、損はない。ほんとうだからさ、ためしてごらん。

2014年9月20日土曜日

賄い飯のないレストラン。

聞いたところによるとチェーンレストランの大手のいくつかは賄い飯がないのだそうだ。誠に現代風で、まあそうだろうな、と思うところある。が、真逆にそれはどうなのだろう、と思うところもある。

飲食の現場は戦争だ。戦いだ。厨房内の作業、調理は重労働で危険も多い。汗も冷や汗もかくことの多い現場だ。ホール業務もお客と接する真剣な現場で神経がすり減るものだ。どちらも同じく大変なのだ。
そういう中、賄い飯という素晴らしいものがあると励みになることは、少し考えれば理解できるだろう。

写真は本文とは関係ありません
ただメシを食らう、という行為とは少しニュアンスが違うのが賄い飯だ。それは研鑽の場でもある。新人の、皿洗いをそろそろ卒業するようなコックの見習いがここまで密かに勉強し、先輩の技を盗み取り、誰に言われるともなくやってきた調理の練習の成果を先輩諸氏に審判を受けるという場所なのだ。
あり合わせでかつ使っても支障のない材料を考え、アイディアを出し、時間を気にしながら作り上げて食べてもらい、そして指導を受ける。大切な修業の場所だ。
これがなければわざわざ研修場所を別で作らねばならず、また、はい研修です、でやる調理では得られない、尊いものが得られるのだ。

なにしろ先輩方の食事である。緊張感が違う。飲食の現場は皆さんが考えるよりも多少荒っぽい場所だ。立ち仕事で、くたくたになるまで働く現場での唯一の楽しみの時間。そのメインたる食事がうまくなければ現場の空気さえこわしてしまうことになりかねぬ。慎重に、真剣に、そして手早く。それが日々続いて研鑽となる。相手があっての自分の料理、という意識も生まれてくる。大変に大事なことだと思う。

飲食に従事するものも、また飲食ではなくとも自らそういう伝統、決まりがある場所を選んで働くことは尊い。
ただ日々マニュアルを見て手を動かすのではなく、自分で考え、動き、それを積んで店でも会社でもない、自分の経験、蓄積としていく、それができる場所を自分でえらぶのだ。そこで得たものは、まぎれもなく自分のものになる。

チェーンだ大手だではムリもあるかもしれない。が、大手だチェーンだ、だからこそ、自分の市場を育てることをせねばいけないのではないだろうか。資源は取り尽くしたらおしまいだ。企業は、社会は文化の上に成り立っている。その文化を自分たちで守り育てないと息の長い商売は出来ないのではないだろうか。商売というスケールではない。食の話しは人としての存亡というところまで考えてもいい話しではないかな、と思うところがある。

2014年8月17日日曜日

ジェット☆ダイスケ氏の著書「YouTubeで食べていく」を読んだ。おもしろかった。

なかなかおもしろい本だった。



彼が書いているのは本人から聞いていたのだが、それを聞いてからずいぶん経ったな、という感がある。少し前にわたしのことも少し織り込みたいのでインタビューを、と言ってもらい、喫茶店でいろいろとしゃべった。わたしの言葉が上手に反映されていたのはうれしかった。



ビデオでのレビューを作ったが、早く直接彼にあって感想を伝えたい。





2014年8月6日水曜日

ScanSnap iX100は違う。今までのスキャナーと違う。この軽やかさはなんだ。

ScanSnap iX100、PFUさんから託されて使っている。もしかするともう手放せなくなるかもしれない、という予感がしている。

前モデルとなるS1100も手元にあるのだが、別物になっていて驚いた。
S1100、iX100ともに小型のハンドヘルドスキャナーといった態で大変に小さい。例えるならペンケースサイズ。デスクトップに置いておくのにまったく苦にならない大きさだ。オートシートフィーダーなしといってもこの小ささは驚異的だ。
実はS1100はわたしと共にスリランカで一ヶ月過ごしてきた相棒だ。旅行にスキャナー?と人に笑われたが、笑い事ではない。ひと月分の暮らしのための荷物、それになりにコンパクトにまとめたつもりだが、そのなかにあって持っていったことをそれこそ忘れてしまいそうなほど小さい。彼の地でのひと月、東京のオフィスと同じ環境を作ろうと考えての持参、もう一台デスクに据え置きしてあるS1300と同等の働きをしてくれた。

そしてそのS1100の後継機たるiX100、同等の外観を持ちながら、中身はまったく違う、コンセプトの違うマシンになっていて驚いたのだ。モバイルスキャナになっていた。
いや、S1100は十分にモバイルスキャナでしょう?そいう言う人も多くいる。わたしもスリランカ行きにモバイルスキャナと考えて持っていった。
そういう気分でS1100を見ていたのだが、iX100を手にしてその思いは吹っ飛んだ。



本物のモバイルスキャナはiX100だ。

iX100にはバッテリーが積まれている。
iX100にはWi-Fiが装備されている。
iX100にはコード類が出先で一切必要ない。完全コードレスなのだ。

驚いた。
スキャナが単体で、コードレスで、ストレスなく動くのだ。この気持ちよさ、軽やかさといったらない。
コンピュータに接続は当たり前なのだがUSBケーブル、Wi-Fi、共に使える。そしてiPhoneやスマートフォン、タブレットにワイヤレスでつなぐことが出来る。これがいい。S1100でもアプリを使ってコンピュータ経由でiPhone等にデータを受け取ることも出来たが、連携の鮮やかさや使い心地はまったく別物だ。

出がけにあわててスキャンしていた資料。時間がなければ出先でその作業をすればいい。

なにがよかったって、あの軽やかさ。
筐体自体の軽さもあるのだが、片手でつかんだ時の掴めてる感。
自動OFFもいい。これはScanSnapシリーズの美点の一つだがカバーを開くと電源が入りスタンバイ状態になる。こういうスピード感も軽やかさ、という感覚に繋がるだろう。

先ほども出がけにちょっと出番があった。
出かけようとして名刺入れに名刺がないことに気がついた。あろうことか30枚以上入るわたしの名刺入れには数日前に行ったトレーディングショーの時にいただいた名刺が満タンに入っている。だから名刺が切れていた。慌ててiX100の全面カバーだけを開いてiPhoneのWi-FiをiX100に切り替え。接続を確認してやおら名刺の束を握り、原稿挿入口に左右、左右と交互に名刺をどんどん入れて行って(名刺サイズなら2枚同時に読み込みができてきちっと切り分けがされる)30数枚をiPhoneの中に片付けた。あとは電車の中でお礼メールを書くだけだ。このスピード感は素晴らしい。
なんだったらそのまま鞄に放り込んでこの日の打ち合わせ後のカフェで資料と名刺をスキャン、即仕事に取りかかることも可能な訳だ。

なになにがどれだけのスピードで動く、というものではなく、運用でのスピード感。
ScanSnap iX100にはそういうものが確実にある。

2014年8月4日月曜日

飲食店の従業員が自店の味を知らない。

驚いた話がある。タイトル通りのことがとあるレストランで起こったのだ。

夜、お腹を空かせて入ったレストランだった。お腹が空きすぎるとメニューを選べなくなる。そんなことが食いしん坊のわたしにはままあるのだ。ここはひとつ、ウェイターくんの意見でも聞いてみるかとオーダーを取りに来た男の子に聞いてみる。

「お腹を空かせているんだよ。なにかお勧めはありますか?」

よどみなくお勧めを教えてくれる彼。
「お勧めは今が旬のXXを使ったこちら。お腹を空かせてらっしゃるそうなのでボリュームのあるこちらもどうですか?」

立て板に水のスマートな接客。うんうんいい感じ。気分がいいね。
さて、どうしようかな、どれに決めようか。そうだ。

「今あげてくれたメニューの中であなたはどれがいちばんスキ?」
「すみません、食べてないんですよ、、、」

あれっ?なにかおかしくないか。彼が自信たっぷりの顔で勧めてくれたあれはなんなのだろう。そう思ってしまった。

写真と本文は関係がありません

あまりにもあっさりと食べてないことを告白してしまった若い、悪気のないホール担当の男の子にあれこれ突っ込むのも野暮というもの。こめかみに力を入れて「ボリュームのあるのはこちら」と言われたメニューを指差してみた。からだから力が抜けてそれくらいしか出来なかったのだ。
力が抜けたのはもちろん、空腹のせいではなく。

コックたちは当たり前だが試食をする。作って、味見をしてブレをなくしていって。それは、当たり前。
ホールの子たちはどうなのか。ホール担当は最前線だ。お客に直接問われ、口をきき、サービスを行う。こういう大事なポジションの人間が味を知らないのはまことに脆弱だ。前線の塹壕に手ぶらで入るような行為だ。たちまち敵に足下をすくわれる。

オーダーミスや料理を皿の上に完成させた後に半端に残るもの。そういうものをコックはホールの子たちにまわしたりする。美しい伝統だと思う。忙しい時間帯、誰もが疲れてきたり集中力を失いかける時間帯にコックがディシュアップの裏に置いた小さな皿。それをホール担当がほんのわずかなスキを見つけて口に放り込み、急いで味わって飲み込み、またホールに戻る。そこにひらめきやアイディアが宿る。ホールに戻ったウェイターたちはその接客に先ほどのひとくちの味を生かす。そういう流れがあってもいい。
厳しい店なら、いや、こちらが当然であり正解、閉店後、お客が帰ったあとにそういう料理の半端なものや余ってしまって賞味期限が迫るものなどをみんなで食べる。気の効いた店長やホールリーダなどがいれば料理の説明と客にどう勧めればいいのか、説明なども入るだろう。

ところが、どうも最近の大手の大型レストランは管理が行き届いており予算達成が厳しくもあり、ロス管理と銘打ってこういうものを排除する動きがあるそうだ。確かにロスも減るし効率化できる。特に全国展開をするチェーン店などはその効果も大きいだろう。しかしそれで失うものは小さいものなのだろうか。

賄い補助、などという項目を設けて現金支給をしたりxx%引きを出来るようにする店もあるようだ。それは制度としてはいいかもしれない。が、しかしだ。コックや先輩から手渡しされる、仕事の場所でその場で食す料理のパワーは大きなものがあるのだ。現金などではダメだ。何割引もナンセンス。作った人から食べさせてもらう体験は偉大なものだ。作った本人がいて、そのうまさを感謝と共に直接伝える。どう作ったか、なにをこだわったか、すべてその場で、まだ口にその味が残っている間に自分に帰ってくる。
尊いものではないだろうか。

そこでホールの彼らは大きなものを得る。
感動や驚きと共に体験したあの味はこういう想いで作られるのか。それをホールでの接客に活かせはしまいか。素晴らしいスペシャリストの誕生だ。そこまでいってはじめて、つまみ食いが試食に昇華する。昇華するまでを辛抱強く待てるのが強いレストランなのではないか、とそう思う。

昨今、あまりにも杓子定規に白と黒を決着着ける風潮が強まっている。結構だがいきすぎると大変大事なものを失う、取り返しのつかないことになる。そういうことが多い気がしてならない。

2014年8月3日日曜日

動画。「港湾重機」

青海埠頭だったか。港で艀からの鉄骨の陸揚げ作業を見ることが出来た。



手元にはGoProとCanonのコンパクト、S120があった。S120だけを使ってデジタルズームを含めて動画を撮った。

どうも困ったものでコンパクトデジタルカメラの動画撮影機能でこれだけ撮れてしまう。しかも手持ちだ。ブラウザの上でちょいと見るには十分ではないか。



最近のわたしはiPhone5を手元に置いているのは変わらずだが、iPhoneと連携が出来るカメラを持ち歩くようになった。全部iPhoneで済ませられる時期は一旦おさまって、こんどはもう少しカメラらしい画を撮れたりズームや超広角で撮れたりできる、iPhoneでは出来ない部分を持つカメラをiPhoneと連携して使う、というスタイルに落ち着いた。



結局ネットに繋がっていなければという部分があぶり出され、なおかつやはり世の動きと同じく多少は画質も考える、という空気の中にいるのだなあ、と思い知る。





2014年7月21日月曜日

人のサービスを横目で見て我慢できない人。

レストランで特別なサービスを受けることがたまにある。懇意にしているお店の時も、初めて行ったお店の時もある。そういうのはとても嬉しいもので、喜んでその頂き物やサービスを楽しむことにしている。

少し気まずい時があるのも本当のところだ。だって他のテーブルにはそのサービスがいかないのだから。気まずく感じるのはきっと控えめな日本人気質からなのだろう。本来なら堂々としているべきとも思う。なぜか。

例えば私が受けている特別なサービスを羨む人がいる。ずるいと感じたり疎ましく思ったりする人もいるらしい。
少し、おかしい。それと考え足らずだ。

サービスには理由がある。いろいろな理由があるだろう。例えばわたしなら雑誌、ネット、その他メディアなどにお店を紹介差し上げたことがあったり。何度も友人を連れて来たり。お店のお手伝い、物理的なものもそうではないものも含め。

お店のためになにかをしているのだ。

写真と本文は関係がありません

それがメリットである、とお店の人が判断して、よくしてくれた人にお返しをして差し上げよう、と考えたのだ。
わたし自身がそれ(お店に親切にすること)を意識している時もいない時もある。この際その「わたしの」思考は関係がない。まったくないと言っていい。お店の方が好意を持ってくれている、ということ。たったそれだけだ。たとえばあなたになくてわたしにサービスがあったとしたら、わたしはあなたよりそのお店にとって何かしらを差し上げているのではないか。
逆もそうだ。あなただけになにかしらのサービスがあったとしたらそれは他の人よりもそのお店に何かをして差し上げている。あなたがだ。お店はそう思っている。

それのどこが不公平なのだろう?

「お前だけずるい、不公平だ」はかわいそうだが子供の意見だ。その意見には「なぜなのか?」がない。その事象に対しての思考が停止している。なぜだろう?そう思う力が最終的には人間力を呼び、日々が充実するだろう。例えば、人よりもよくされる、ということかもしれない。

ただもうウマがあう、そういうのもある。人がやっているのだ。あなたも、人だ。

その本に寄稿していないのに献本が来る。レストランにお呼ばれをしてご馳走いただく。(お支払いを希望する時もある。笑顔でご馳走になる時もある)素晴らしいプレゼントをいただくこともある。あなたにだってあるだろう。その時に考えるのだ。なぜこの人はよくしてくれるのだろう。それを考えるのはは容易い。なにせ自分のことだから。
自分に力を付けるなら他人の幸運を見て、あの人はなぜ人に良くされているのか。それを考えるべきだ。
プレゼントを突っ返す、その礼を失した行為も自分の立場でならわかるだろう。なぜ人には当てはめられないのか。

自動販売機に親切にしても何も帰ってこない。その代わり、いつだって、誰にだって、自動販売機は公平だ。それが王様でも子供でも
店を選ぶか、自動販売機で買うか。選ぶのはあなただ。


追記

これを書いていること自体わたしは恥ずかしく思っている。お世話になっている方々にこんな文章を読まれたくない。が、しかし、いいたいことはこうやってちゃんとある。言わなければならないのが、歯痒いのだ。

2014年7月12日土曜日

レストランの食事の金額、の話し。お財布と価値観と。

店に行って食事をして。そのお値段の話し。


高い、安い、という人がいる。意識もしていないし罪なく言っているのだろうとも思う。街を歩いているとそんな声も聞こえて来たりする。他愛のないものだ。
インターネット上でそれを書く人もいる。そうなると少しニュアンスが違ってくる。なぜだろう。

インターネットは匿名が横行しており顔が見えないから、だろうか。街でそういう声が聞こえて来てもそちらを振り向けばそこに言葉を発した顔があり、意図がわかる。ホッとする。ネットではそれがない。ただ言葉だけがあり、そこに残されていた言葉だけがひとり歩きを始める。いくら相手の立場に立とうとしてみても、顔が見えないとそれが出来ない。ただ言葉だけがある。

写真と本文は関係がありません

値段の話し、基準というのはどこにあるだろう。簡単だ。他愛のない会話のなかに出てきた高い、安いはただ、その人のバッグのなかにある財布の中身。たったそれだけが基準だろう。それでいい。

ただ価値、価格あたりの値(あたい)というのはそういう場所にあるものではない。
この話しはたまたま食事の値段という話しだが、他のあらゆるものについている値段の、その導き出された理由に依る。
食べ物だったら簡単だ。素材と物流と周辺コスト。それに板前さんの技術料だ。腑分けするのは簡単だ。が、そう簡単にいかないのが人の気持ち。振り返ってみればいい。自分の仕事の価値、その対価としての取り分。思いを込めた仕事。単純な金額では計れない。ひとのからだに入ってゆく食べ物を扱う商売の人たちはその思いもひとしおだろう。

単純に自分のお財布の中身だけで高い安いを口にしてしまうのは少しこわいことだ。
安ければ良いのか?300円の価値は人それぞれだ。が、300円で一食が済んでしまう不思議さ、異常さは気に留めておいた方がいいのではないか、と思う。駅前の店でその金額で食べられる食事と同じものを自宅で手をかけて作ってみればよくわかると思う。

なぜだかインターネットには匿名での行動という麻薬のようなチョイスができる。普段、会社や街で気をつけていることが気をつけられなくなる。おかしな中毒性があるのだ。きちんとニュアンスが伝えられない場所で、そんな場所であるにもかかわらずますます暴言を吐く人々。
親しい人との屈託ない会話なら、心通じる前提での軽口も楽しかろう。しかし自分を離れてしまったネットの上での言葉は、不特定多数の人の心には残念ながら伝わらない。

安いのにはわけがあり、高いものに理由がある。すべての事象には理由があるのだ。
それを気に留められるか否かで、なぜだろう、というものの考え方の根幹があれば、日々や人生さえも変わるのではないだろうか。

価格の価値はあなたの財布の厚みで変わるものではない。
そして、どうにも食べログは、苦手なのだ。

2014年7月7日月曜日

エキサイティングマックス!の原稿の話とレストランを守る自分のエゴと。

月刊男性誌、ぶんか社の「エキサイティングマックス!」に連載を持っている。
いつでも大変に苦しんで書いている。なにを苦しんでいるのか。それは。

それは、必ず「自分の好きな店」「大事に思っている店」を取材先に選ぶから。
そして自分の好きな店の店主がどの店でも「任せた」と言ってくれるから。

私の原稿。取材先、お店には入稿する原稿のチェックはしてもらわない。
住所や営業時間等はもちろんきちんと公式のHPやショップカード等で確認、店主にも最新の情報はどれを見ればいいのか等は取材時に確認をする。そしてそれを編集部でもチェックを入れるという二重チェックのスタイルだ。
そういうなか、よく店主に「雑誌が発売されるまで原稿見せねえからな」など軽口をたたくことがある。するとどこの店主も「いいよ、任せたから」と口を揃える。「なに書いたっていいからさ」と。
さあ、ここからが苦労の始まりだ。

写真はイメージです
なにしろ「任された」わけだ。全幅の信頼をわたしの文章、筆においてくれたわけだ。これは、相当に背に重い。当たり前だが真剣度は針が振り切れるくらいだ。そうやって背負うと、文章が長くなる。何もかも書きたくなるのだ。ところがここからまた地獄が待っている。想いの丈をぶつけた原稿。編集部から規定をもらっている約1200ワードから倍を超えることもままある。それを規定量に削っていく。大変に厳しい作業だ。全体のバランスを見つつ、絶対残したいものを残しながらバランスを保つ。ほとんど書き直しという時もある。ともすれば詰め込みたさが勝つあまりぶっきらぼうな文章になってしまったりもあり、反省の日々だ。
一つの原稿仕事にこれだけ熱を入れて書くのは、生活や仕事という話しから考えれば行き過ぎではあるかもなあ、とも思うこともある。が、やめられない。

話す機会があまりなかったのだが、わたしの文章、ブログや紙媒体、Webメディア、問わずに共通していることがある。これらの飲食店に関する文章は、すべてわたし自身のエゴの元に成り立っている。誤解を恐れず言ってしまえば読者のことなど考えていないのだ。まったく、自分のためだけに書いているのかもしれない。長く書き続けてそういう形になった。

それはなになのか、なぜなのか。

わたしはご存知の通り飲食関係の文章に関してはカレーというテーマに特化して活動している。カレーが好きだ。だからそうしている。単純だ。もちろんほかにも好きなものは多くある。イタリアンも、冷やし中華もたこ焼きも、みんな好きだ。
なぜこうも、二日と空けずにブログを書くのか。なぜ月刊誌にカレーで連載まで持たせてもらっているのか。これは、わたしのエゴなのだ。

大好きな飲食店がある。たくさんある。どこも好きで、うまくって、店主はいい人で、思うたびにたまらない。が、しかし。飲食業はなかなかむつかしい。うまいだけじゃだめだし、人柄だけじゃないし、近所にある大企業が移転することだってあるし。そうやって飲食店がなくなる。わたしの大好きな店が、なくなる。それは耐えがたいことだ。あの素晴らしかった代々木のスパゲッティの店「くじゃくの舌」スリランカカレーのブッフェでサンボルだってきちんとあった練馬の「ディヤダハラ」西荻窪の落ち着ける欧風カレーの店「トラトラ」。
なくなってしまったあの店やこの店が浮かんでは消える。

たとえばあのとき、もっと通っていればあの店はなくならなかったのか。もっとがんばって通っていれば。しかし、現実問題、その大好きな店に毎日通って毎日1万円づつ落とすのはまったくもって現実的ではない。そこではたと気がついたのだ。自分だけで応援をやる必要はない。他の人の財布にも協力を求めよう、と。
そうやってブログで、メディアで、好きな店を紹介してゆく。結果、店は潤い、何らかの形で続いてくれる。そういうサイクルが出来れば、と常に思っている。そう、それはエゴなのだ。しかしそのエゴで不幸せになる人もいないはずなのだ。わたしはきちんといい店しか紹介しないし、そのいい店の基準を味だけ、値段だけには決してしない。そこでなにが起こってなにが楽しかったのか。体験を伝えたいのだ。味は当てにならない。人間の舌は、経験は千差万別で100人いたら100通りのおいしい、がある。それを伝えるのは至難の業だ。なので、体験を伝える。どう楽しむか、を伝える。どう感激したかを伝える。そういう風にいつもありたい、そう思っている。

未だ志し半ばだし、わたしの力、影響力なぞたかが知れている。わたしを知っている人はこれを読んで「いや、影響力大きいじゃない」と言ってくれる人も多いだろう。もう一度いう。わたしの影響力なぞたかが知れている。狭い範囲での、わたしなのだ。カレーなのだ。だから、大きな力を持ちそうなチームに参加してみたり、カレー好き、外食好きとは違うジャンルの人たちにリーチをかけようと、もがく。

外食は、楽しいのだ。得るものも多いのだ。それを伝えたい。
ただ外で食事をする、それだけの行為ではないというのを伝えたい。そんなの知ってるよ、という人はいい、これを読まなくても。きっと幸福な外食生活を送っているのだろうから。みっともなくてもなんでもいいから人との繋がり、気持ちのやり取り、そういうものを大きく内包する外食というものを、ちょっとでも後ろから踏ん張って押してやりたいといつでも思っているのだ。

そうやって、毎日カレーを食べている。


2014年6月27日金曜日

ポートレイト写真を撮る楽しみを知った。弓月ひろみさんを撮った。

ポートレイト写真を撮る楽しみを知った。
弓月ひろみさんに教えてもらった。とても素晴らしいモデルさんだ。
純粋なポートレートとは少し違うのかな。教えてもらえたこと、多かったな。

ある日彼女から連絡をもらって「写真を撮って欲しい」といわれた。
なんだろう、と思った。聞けばホームページのリニュアルをするそうで、それに使う写真をいろいろな人に撮ってもらう、というコンセプトを立てたそう。なるほど、美女のお願い、もちろんお手伝いいたしましょう。


浅草を撮影場所に選んだ。選んだのだが、なかなか難しかった。ポートレートを撮るわけだが、外でのポートレート、自分のメンタリティではむずかしい、と感じた。なんと説明していいのかな。広い、いや、開かれた空間だと集中しにくいというか、なんというか。


はじめは雷門あたりで待ち合わせをして銀座線の改札の隅にある小さな地下街でしばらく写真を撮った。モノクロで撮った。これは自分の趣味が多分にはいっている。悪くはなかったのだがもう一つしっくり来ない。
一旦古い喫茶店に入っておしゃべりをひとしきり。のち、撮影再開。
新仲見世や六区あたりをぶらぶら、花やしきのあたりに来たのだがどうもこれという画が撮れない。だんだん冷や汗が出てくる。楽しいデートで終わっちまったらいかん。役に立てず、で終わってしまう。それじゃいかんのだ。そうやって焦りも出て来たところで

「アンヂェラス」

に入ってみようか、という話になった。
アンヂェラスは古い古い喫茶店だ。ヨーロッパの山小屋風の外観とレモンパイというクラシックなケーキが名物。永井荷風や池波正太郎らが通った店としても知られる歴史のある店。気に入っている。ただし人気店でいつでもどうにも混んでいる。そう思っていたのだが、ちょうど潮目、凪の時間だった様子で二階の階段下の席に着いて早々に他の客がどんどん引いて行った。


焦りも何もあったのだが、とりあえずお茶にして、また四方山話。恋愛話や食べ物、旅行の話し。他愛のない話し。古い喫茶店の暗めの照明と独特の空気が距離を縮めてくれる。
そういうのを続けながら手元では幾つか持ってきたカメラを持ち替えて、ダイヤルをまわして。何枚かづつ写真を撮ってはまた考え。すると、どうにもこの店の照明の色や光の加減、色々な要素がうまくバランスするポイントが見えてきた。
心なしか彼女との距離も縮まりリズムも出てきた感がある。外と違って狭い席の距離感、親密感が背中を押してくれるからなのか。あっと思ったらいい写真が撮れていて、驚いた。

どうやらなにかのしっぽをふわりとつかまえたらしい。自分自身もやっと彼女がどう撮って欲しいのか、どう撮られたいのかのツボが見え隠れする所が分かってきた。心なしか、エロティックさがモニターにそろりと乗って来ている感もある。手応えがあった。よし、もう少し。もう少しスカートの裾をあげてもらおう。

そうやって素人なり、自分なりの撮影を終えた。なんとなくわかったのはカメラではなく、腕前でもなく(これはまた別の話しなのだが)、コミュニケーションなのではないか、ということ。
会話の中からどういう写真を得たいのかを探り出し、表情の変化や言葉のニュアンスを一所懸命咀嚼などして。おだて、すかし、おどし、笑わせ、なんとしても表情を引っ張り出したり、逆になにもせずに、そっとそのままの表情を空気の如く気配を消して拾い上げていったり。

そのやりとりから生まれてくる写真の面白いこと。
人前に立ち、カメラのフラッシュを受けることを仕事とする彼女にとってわたし程度の写真では不満も多かろうし、随分枚数を撮った中で使えるものは数える程であろう。が、わたしにとってはなかなか得るものが多い面白い撮影だったのだ。


何年か前、なのだがスタイリストの神様のような人、高橋靖子さんがパーティーに誘ってくれたことがあった。知人もほとんどいないタフなパーティーであったが楽しかった。
そのさなか、キヤノンのiXYの小さなボディを両手で抱え、包み込んでヤッコさんの横顔15センチに近づいて写真を撮り続ける一人の男性を見た。
面白いなあ、近いなあ、と思いながら眺めていた。その後かの男性とカメラ談義をした。たわいもない話だったのだが、後になって色々考えると、どう考えても不勉強なわたしですら知っているレベルの有名な写真家だったようなのだ。そう、T-REXやデビッドボウイを撮っていた人、だ。部屋に帰ってたくさんの冷や汗をかいた。
そのキツイ思いの中で考え至ったのが「機械ではない」ということ。彼があの日撮ったヤッコさんのポートレートを見たわけではないが、確信として言えるのはいい写真をたくさん撮っていたのであろうこと。コミュニケーションが出来ていたからこそ、信頼関係があったからこそあそこまで寄って、どんどんシャッターを落としていけていたのだなあ、ということ。

弓月ひろみさんとそういう関係を築けたか。はなはだ疑問ではある。しかしその一瞬、なにかを掴みかけた、いや、掴んだことは確かだった。そういう気がしている。


面白い。やっぱり写真は面白い。
カメラじゃなく、写真は面白いんだ。

人はおもしろいんだ。



2014年6月19日木曜日

「臨時休業」(仕込みまにあわず)は健康的だと思う、という話し。

飲食店で「臨時休業」(仕込みまにあわず)という張り紙を見ることがある。
Facebook等で知ることも多いのだけれど。
売れた。予想以上に売れた。なのでストック、仕込み済みが底をつく。
物理的に営業は無理だ。帳尻合わせでは営業できない。仕方ないので一旦店を閉める。

健康的である、と思う。

ニッポンのレストラン、大手の資本が入ったところなどが特にそうなのだが、素晴らしいこととしてやっていたことが、どこかでボタンを掛け違えておかしなこと、不健康ことになってしまっているかもしれないなあ、と思うところがある。

ニッポンのレストランはすごい。グランドメニューがあって、そのメニューの品数は他の国のレストランと比べるとただ事ではなく、そして品切れなぞないことが多い。すごいことだ。そしてその状態を365日、保ち続けるのだ。並大抵のことではないと思う。こんなレストランが軒を並べてしのぎを削る国は日本くらいなのではあるまいか。


それはつまり資本力でもあると思う。店舗での食材管理、流通の整備と効率化、商品開発の研究。長く品質を保つ技術。全国に同じ看板を掲げる数百店、数千店のメニューをすべて均一な味と香り、鮮度に保つためには莫大な労力と資金力が必要だ。その上それをリーズナブルと消費者が感じる値段で提供をしている。
例えば離島と東京新宿、その看板が同じものなら同じ値段と味なのだ。

異常ではないか。

季節も天候もあるだろうに、生鮮野菜や決められた食材はメニューに美しく写真が載っており、それは絶対のルールとなる。写真通りでなくてはいけないのだ。生産者へのプレッシャー、契約条項、それを死守するための技術革新や科学的なアプローチ。そのコストは当然ながら最終的には口にする皆さんの支払う価格に乗ってくる。なのに、安い。
いろいろ変だとは思わないだろうか。

インド料理では、いや日本の家庭料理でも、その他の世界のお母さんたちの料理はカレーや味噌汁、おかずの味は毎日完全一致、一定などということはない。当たり前だ。家庭のお母さんが、家族の顔を思い出し、その日ごとに考えて作るのだから。
今日は寒いから暖まる献立にしてみましょうか、とか、息子はどうやら体調が悪いようだから、消化を良くするスパイスとリラックスできるハーブを使いましょう、とか。
レストランの料理も、町のレストランや食堂なら同じ考え方で作っているはずだ。市場で探した、今日いちばんいい食材を買ってきて、それをコックさんの技術でいちばんおいしく仕立てて献立に載せる。だから通年で出せる決まったメニューはそれほど多くない。当たり前だ。

食に関わる人は、それが、自分が手がけたものが、人のからだにはいるということを意識していない人はいないはずだ。巨大なセントラルキッチンで一日何万食も作られるメニューを手がける開発者も、町の食堂のおっちゃんも分け隔てなく同じだろう。
が、しかし。間に流通や保存、加工方法やいろいろな要素が複雑に重なれば重なるほど、多くの人の手を通らなければならず、そのなかでいちばん初めの開発者の想いが薄まったりしているかもしれないのではないか。そういう想像力を持って夕食の、ランチのテーブルに付くことは悪いことではないと思う。

売り切れでお休み、仕込み中、は正直の証かもしれない。
(お客さんの来客数の読み違え、という線も捨てきれない。そこは人間のやること。ご愛嬌、だ)

2014年6月18日水曜日

ブルーインパルス展示飛行 「SAYONARA 国立競技場 FINAL FOR THE FUTURE」

新宿サザンテラスに行った。結果、なのだが。
その前日、東京上空をブルーインパルスが飛ぶ、という話しを聞いたのだ。セキュリティやデリケートな問題があってか、その噂と公式情報の公開は前々日あたりから大きくなり、あわてて観覧する場所を探す人が続出した。

情報では
>>
飛行時間は午後5時35分から10分程度。国立競技場を中心とした東京上空で、6機編隊が4種類の直線飛行。当日の飛行ルートは埼玉県の入間基地出発、埼玉県草加市、東京足立区、板橋区等上空を通過。国立競技場上空通過
というもの。

ブルーインパルス展示飛行 
 「SAYONARA 国立競技場 FINAL FOR THE FUTURE」 

私はジェット☆ダイスケ氏に誘われ離陸時間の40分前ほどに新宿に到着。当初彼が「池袋のサンシャイン60」からというのはどうか、と提案。池袋でと思ったのだが、当人が完全に寝ており(デフォルトなのでそう驚かない)そうこうしているうちに時間もリミット。タイムアップでそのときにいたのがサザンテラスであった、というていたらくにして偶然であった。



が、NTTのビルをかすめて飛ぶブルーインパルスT-4中等練習機のブルーと白の影。ビルの谷の上空、東京の空を飛ぶジェット戦闘練習機の勇姿。その美しさといったらない。

コンデジであるCanon S120、よく働いてくれた。とっさに場当たりで撮ったにもかかわらず、気に入った映像を残してくれた。
カメラの名誉のために言うが、ぼけている時間が長かったり追いきれていない映像は筆者の腕の稚拙さのせいだ。

2014年6月17日火曜日

flick!別冊「鞄の中のデジモノ百科」が、発売中。

「flick!」はご存知のデジタルガジェット総合誌。電子書籍で月刊誌として出ている。
その別冊の形で紙で出ているムック、「flick!特別編集 鞄の中のデジモノ百科」というムックが出た。これがおもしろいんだ。


flick!で連載されているガジェット関係の有名人やおもしろい人を取っ捕まえて鞄の中身をご開帳。モバイルでどんなことをしているのか、なにを使っているのか、というところを白日のもとに曝す。とても楽しい。

僕の友人のマガジンハウスのエディター、池田美樹嬢も登場している。
皆さんの気を引くとすれば、例えばあの16連射の高橋名人や瀬戸弘司さんなんかも登場している。彼らの鞄の中身が覗けるって言う寸法だ。

実はこれの前の号に当たる「flick!特別編集 携帯ツール百科 あなたのデジタルデバイス見せてください」には表紙にも載せていただいた。光栄なことにとなりには日本Microsoftの元社長、古川享さん。文具王やいとうまい子さんとも一緒だ。友人の佐藤リッチマン、弓月ひろみちゃんも。誌面には林信行さん、荻窪圭さんにいしたにまさきさん、sasurauさんも村上タクタさんも川村さん、戸津さんも、、、と盛りだくさん。ホリゾントの前に立って撮影をしていただく、という嬉し恥ずかしの初体験をさせてもらったのもいい思い出だ。


2号目のこれの出版記念パーティーにもお誘いいただいて、とんでもない人と席を同じくした(緑のゾウのアイコンのあそこのCEO、、、もちろんムックに掲載されている)
これにはさすがの僕も鼻からスパゲッティが飛び出した。

flick!、恐るべし。

2014年6月4日水曜日

いいことばかり書く、という可哀想なものの見方の人がいる。

誰だかが私のカレーについてのブログYouTubeチャンネルについてこう言っていた。


「いいことばかり書いてあるけれど本当なの?マズイ店ないの?」

こういうことを書く人間は普段は相手にしない、というより見かけてもなにも残らない、引っかからない。意識の外にあるから、自分の客ではないと思われるので記憶にも残らない。
とはいえたまに気まぐれでこうして書いたりする。
いいことばかりは本当か?

本当だ。

ただしこの質問を口にしている時点で質問者の意識レベルや経験では「なぜ本当なのか」を咀嚼したり想像したりすることは出来ないだろう。

写真と本文は関係がありません

なぜなのか私にはさっぱりわからないのだが、飲食店に行くと粗探しを始める輩がいて、がっかりさせられる。自分の財布を開いて支払いをするのであろう、そういう食事のときに、だ。あきれてしまう。
きっと職場や生活圏で同じ目にあって、そのループから抜け出せぬまま他人にも同じ嫌な目に合わせて満足している輩なのだろう。
飲食店で自分の財布を開いて食事を楽しむ。そう、食事を楽しむべき店に来て自分で楽しもうという努力をしない部類の輩。まずは同じ土俵に立っていないので話が噛み合わないこと甚だしい。

楽しむための努力の方法はいろいろある。
その場で行う「楽しむための努力」だったら、例えばくだらない粗探しではなく、ブラスマイナスゼロのニュートラルラインからのいいところ探し。
楽しむ気持ち、楽しむ力。人間力とも言い換えられるものを持っているかどうかでそれが出来るかどうかは変わってくるだろう。
その場を楽しむ。ミスと思えるようなものに寛容になったりそれはなぜおこったのかな?と相手の立場に立ってみたりする。
その行為は慈悲深い王のような心持ちだ。誇り高い者には、誇り高くやっている店でならきちんとした扱いが保障される。そして誇り高い者は志同じくする空気が有る場所が、店が、わかるのだ。

事前の準備としてなら、日々を努力して収入を大きくする。現在の日々のランチの10倍ほどの金額のランチを毎日食べられるような線に持って行く。自ずと心の余裕や楽しむための素養がそこまでで出来ている(といい。そうだと信じたい)そういう金額や格のある店にはあなたをイライラさせる要素も少ないだろう。
そういうやり方もある。あなたにやる気があれば、だ。

まずい、とはなんだろう。マズイ。不味い。まずいという言葉。

なぜ質問者は不味い店に当たるのだろう。きっと経験が足りないのではないか。食だけの話ではない。たくさんの経験を積んで判断の幅が広がる。そういうことを怠っているのではないか。そういう勉強や知識欲からより楽しい判断が出来るように自分を鍛え上げてみてはどうだろう。

さあ、あなたの番だ。レストランに行こう。あなたが試される。試されているなど思わずに、こんな文章のことなど笑い飛ばして自分だけの、心から満足行くランチを、あなたは今日、手に入れられるだろうか。



<追記>
不味い店に当たること、不味く感じさせる店に当たることがないわけではない。本来こんな昨今である。野菜も肉も品質改良され、調味料も然りで「味の底上げ」のようなことが戦後ずっと、続いている。そういう中でも「不味く感じさせる店」はあるわけで、それはいい。私はただ、黙っているのだ。黙って支払いをして、抵抗するように残すこともせず、一見いい客風に店を出る。もう一度、はない。そして騒がず、誰に言うともなく、黙っている。さて2〜3ヶ月後。私が件の店の前を通りかかるとどうやら営業をしていないらしい。閉店ではないようだ。廃業だ。つぶれたのであろう。そういう経験を数多くしている。黙っていても、魂なき店は消えてなくなる。あなたが「食べログ」で下品な言葉を並べる必要は、一切ない。


2014年5月29日木曜日

「定食 やまぎし」のあら煮定食。

西荻窪。ホームタウンにこういういい店があると、大変に幸せだ。

「定食 やまぎし」のあら煮定食。

いつも駅への道でここを通りかかる。昼時、店先のメニューを見てこいつを見かけた時は、腹が空いていようがいまいが、ふらふらと店の扉を開けてしまう。そういう困ったメニューが、あら煮定食だ。

まったくうまい。


本物のあらで、鰭や骨がいっぱいだ。はっきりいって食べづらい。が、それをのけのけ食べるのが楽しいのだ。そして食べづらいくらいの魚のあらだからこそ、出てくる味というものがある。
甘く煮付けられた幸せな味に針生姜が心地よく効いている。味噌汁もお新香も控えめの薄味だ。現代の工場で作られる濃い味に慣れた口には一瞬おや、おと思うかもしれない。そこをぐっと我慢して出汁をゆっくり味わうのだ。本当の繊細な美味しさがすぐにわかるはずだ。出汁の繊細さを味わい、締めに残した一口分のごはんと控えめの塩味が上品なきゅうりの糠漬けを大事に、一気に口にほおりこむのだ。
ただ事ではない至福の時間が過ごせるだろう。

最近ではずいぶんな人気のようだ。店がいっぱいの時間もままあるようだ。
昼時は長居する店ではない。だから回転も速い。ちょっと待ってうまいものを食らう楽しみ、代え難いものがある。

2014年5月17日土曜日

外食SNSの可能性。Rettyというサービス

FacebookとTwitterをメインストリームとするソーシャルネットワークの世界。最近ではSNSも特化型のものが数多く見られるようになって来た。自慢のペットを紹介するSNS、洋服や持ち物を見せ合うSNS、ニッチなものまでジャンルとして括ってぶつけてくるサービスが増えている。

その中でも日本で突出しているジャンルが食のSNSではないだろうか。随分参入も増えているようで、その中でも目立っているもの、老舗とされるのが「30min/サンゼロミニッツ」「miil」「Retty」だ。それぞれに特色があって面白い。

30minはタウンページ的アプローチで外食以外の店舗、プレイス、までをカバー。
miilは外食だけではなく中食、内食までもをカバー、地域がキーになっている。
Rettyは長文と数多くの写真掲載が可能な実名型SNS。ブログに近い部分も併せ持つ。

この中で先だって1億円の資金調達を達成し、海外展開を視野に入れるRettyの可能性が気になっている。
Rettyの可能性、という部分でわたしが強く頼もしさを感じるのが「信頼性」の構築方法とその精度。

食べログもある種食のソーシャルネットワーク化している部分があるが、今だ問題も多く、そのレビュワーと言われるユーザーの意見、文章は玉石混合、信頼性において疑問を感じることが多い。運営側の対応や管理も疑問に思う点がある。まとめ方、バランスの取り方が上手にいっていないのではないかと感じることがあるのだ。

大前提として食べ物の嗜好性というものがある。
とにかく舌の嗜好というのは振り幅が大きく共有する上での均一化はほぼ絶望的だ。
共有感を築くのには大変難しいジャンルである。
Rettyはそこを自分と嗜好の似ているユーザーを探す、という切り口と実名性というふたつのキーの組み合わせで信頼性を上げて行っている。これは大変に興味深い、可能性高いアイディアだ。

実名性を嫌う人々の中には匿名だからこそ、と羽を伸ばしすぎて冷静ではいられない人が混じる。信頼性が落ちるわけだ。実名を出して書いているいる人たちは大概冷静だ。中庸になってしまうきらいもないではないが、信頼性は上がる。
そういう中で友人や、そのパーソナリティを読み解き信頼に足る人を自分で見つけてそれを自分のニュートラルラインにするというのは上手なやり方だ。それを選んだ自分への責任、というものが見えやすいのではないか、とも思う。

性善説だけでは世界は廻らない。が、Rettyは性善説のいいところを上手な着地点を見つけて生かしている、と感じる。SNSの世界一にならずとも、信頼をもとにした良質な顧客を集めることにつながり、それはビジネスとして土台の揺るぎなさに直結するだろう。

Rettyから目が離せない。

2014年4月19日土曜日

甲府の銭湯で。(小鳥ピヨピヨに掲載した短編。再掲載)

例によって少々考えに困ってクルマを走らせた。アイディアが湧かない。仕事が先に進まない。だいたいそういう時は人が少ない場所へとハンドルが向いてしまうことが多い。海の方面に向かうことは滅多にない。なぜだか、山だ。その晩もやはりハンドルは山の方へと向いた。

高速道路はどうも思考の邪魔をする感があって好まない。ひたすら下道を走る。甲州街道をただ西へ。賑やかな街を通り過ぎ、湖の脇をかすめて細くなってきた昔の街道町の風情が残る国道ぞい。県境を越えると街灯もまばらになってくる。クルマの操作に集中しながらだんだんと気持ちが和らいで、運転とは別の流れが頭と心の中にできてくる。が、しかし。

この夜はどうもそこに至らない。届かない。なんだろう、なんだろう、と考えながらふと気がつくと、何度も左手が肩にまわって無意識に筋肉を揉みほぐそうとしている。ひどく肩がこっているようだ。集中力がひどく落ちている。気がついてしまうともうダメだ。肩が気になって仕方ない。腕まで重たくなってきたような気分で少々困り果て、通りかかった町へバイパスを外れて入って行くことにした。銭湯を探してなんとかからだが動くようにしてみよう、と考えたのだ


銭湯、なかなか見つからない。ここは温泉街の隣町、かえって見つけにくいのだろうか、など考えながら夜の市街地をさまよっていた。温泉、という手もあるのだが、なんだか温泉より銭湯が好きなのだ。さんざ探してやっとこさ。果たして銭湯が一軒、見つかった。どうやらこの街は夜が早いようで、銭湯は軒並み夜9時には閉まってしまう様子。滑り込みでたまたま駐車場がそばにある風呂を見つけたという次第。特に選んだわけではない風呂だった。昔風の数寄屋造り、というわけでもなく、かといって最新のジェットバス完備、という風でもない。ごく普通の、いや、少々くたびれた感じの地方のよくあるお風呂屋さん。兎にも角にもお湯の中でからだを伸ばしたい。そういう思いでいつもはこだわる下駄箱の番号も気にせずに、そぞろ下駄を預けての番台通過。さっさとパンツを放り出し湯船に飛び込んだ。

ちょいとぬるめのお湯は大変心地よく(私でちょうど三代目、東京下町育ちとしてはなかなか実家のそば以外で気持ちいい熱いお湯に当たらないのだ)ゆるりとからだが温まり、筋肉の硬直が取れてゆく。極楽、極楽。
ひとしきり入っては出て、を繰り返し我を取り戻すとおや、番台さんは女のひとか。なかなか美人だったんじゃないのか、などメガネもかけずにいい加減なことを思い始める。からだも頭もやっと緩んできたとみえる。

さっぱりして風呂を出て。カゴの着替えを掘り返してタオルを見つける拍子にふと振り返ると番台さんと目があった。おっ、こりゃあ。

年の頃は30代の終わりか越えたか。化粧っ気はなく、少々お疲れの様子だが、どうにも人好きする、ちょいと色っぽい雰囲気がある。
照れ臭くなってそそくさとパンツを履いて、そっぽを向くふりをしながら汗が収まるのをゆっくり待った。

あれきり、私きり、お客はこなかったようだ。やはり閉店ギリギリに飛び込んでしまったか。
ちょいと悪い事をしたなあ、と衣服を整えていると、件の若女将が声をかけてきた。
「ご近所ではないですね?どちらから?」
東京から来た旨、何かうまいものを食べたいなど四方山話が始まった。喋り方がおっとりしていて耳心地がいい声だ。いろいろ話していると、どうやらやはりこの辺り、夜が早い様子。仕方あるまい。実はバイパス沿いに一軒、行ったことのあるインドレストランがある。可もなく不可もなく。まあ、そこにでもよるか、と少々諦め気味。ああ、そうだ。
「すみません、ここら辺にマッサージをしてくれる店はありませんか?ちょっと無理をして出てきたので腰が痛くて。いい整体師さんがいるとありがたいのですが。」
そう聞くと、件の番台の若女将、困り顔で
「そうですねえ。早い時間なら何軒か知っているのですが。食事だけではなくほかも早いんですよ。」と答えてくれた。
いや、致し方ないなと礼をいって腰を上げかけると若女将が「あの、、、」と、おずおず声をかけてきた。
「あの、ご迷惑でなければわたしがほぐして差し上げましょうか?少し心得があるんです。」と。おやおや、おもしろい雲行きになってきた。少しだけ格好をつけて
「いやいや、それは申し訳がないです。お仕事していらっしゃる途中でしょうし。」と告げるとなんとも言えないほんのりとした笑顔で「いえ、もう閉めるところだったのですよ。お客さんでお仕舞いです。」といったきり小走りで脱衣場を出て行った。下駄箱の向こうでガラガラガラ、とシャッターが閉まる音がする。もう一度おやおや、と心の中でつぶやいて、思わずにやりと笑みが出てしまった。おっとりした感じと疲れた雰囲気が色っぽい風呂屋の若女将と二人きり、だ。さで、どこにころがるやら。

やがて表の仕舞いを済ませた若女将が帰ってきた。
「ごめんなさい、お待たせしちゃって!」と息を切らせて脱衣場に飛び込んできた。なにやら先ほどと違って可愛らしい仕草。またおやおや、だ。楽しくなってきた。


「せっかく上着をきたのにごめんなさい。シャツになっていただけますか?」
ときた。色っぽい低い声。なにをか期待するのも無理なからぬ話し。大人の時間はこれからだ。
地方都市のうらぶれた銭湯、美人の若女将と旅の途上の顔色冴えぬ男。三流だが堂々たる役者の布陣である。こりゃあちょいとしたドラマ仕立てだ。なんだかこの状況に嬉しくなってニヤニヤしていると「あら、楽しそうね。どうかして?」と打ち解けたセリフ。こりゃもう沈没だな、とますますニヤニヤが止まらない。すると彼女が「では始めます」というとするりとカーディガンを床に落としてニット一枚になった。「目をつぶっていてもいいですよ」と囁くと後ろを取られた。さあ、もうわたしはあなたの思うがままだ。すべておまかせしよう。そう腹に決めてだらりと腕を垂らす。籐の椅子に座ったわたしの後頭部上あたりから聞こえてくる甘いささやきを耳に、目を閉じた。

「ごめんなさいね」と言ってわたしの肩や肩甲骨を触れるか触れないかの間合いでスーッとなでる。「ここら辺かしら」「はい、だいたい」もうこれは、まな板の上の鯉のような心情だ。どうとでもしてくれ。
すると件の彼女「では失礼します」と言ったきり、押し黙った。なんとなく、ふんわりとした気配はあるのだが、ちっともわたしの方や首に触れてこない。うむ、なんだろう。しばらくそのなにか気配があるものの、触ってくるものなし、という宙ぶらりんの状態が続いた。たまにいい匂いが漂うのがなんとも切ない。

じりじり、じりじりと時間が過ぎる。たまに、なんとなく気配のような暖かさのようなものを感じるが、どうにも肩や首に触れてきてくれない。うーん、もう我慢が出来ないな。そっと目を開けて、脱衣場の壁にある鏡に目をやると。

真剣な顔をした彼女はわたしの背中の肩甲骨あたりに手をかざしてじっとしている。時折場所を変えては手をかざす。それを繰り返しているようだ。

なるほど、そうか。

わたしはそういうものに関して特に抵抗はない。逆に自分の不信心を恥ずかしく思っており、何かを信じて進む人を目にすると眩しいなあ、と思ってしまう。若女将もその部類の人のようだ。
そうか、そうか。そう心でつぶやいて、今度は肩の力を本当に抜いて、また目をつぶった。さっきよりもわくわくする気分は減ったがリラックス感は、増えた。

ひと通りの施術が終わったようで「よろしいですよ、どうですか」と声がかかった。「いや、どうもありがとう。本当に助かりました。」心なしか、本当に肩が軽くなった気がしたのだ。プラシーボだかなんだか知らないが、そう思えたからそれでいい。

少し上気した顔でこちらを見る若女将。
丁寧に礼を言って、また少し四方山話をして。
おっと、すっかり遅くなってしまった。そろそろお暇せねばね。

さて、東京までの帰り道。
思い描いた先行きと、ちょっと違ったオチがあった今日。
車の中でもう一つの別の結末でも想像しながら、のんびり下道を帰るとするか。
思わぬ地方の町に知人ができた。




2014年4月10日木曜日

The green table

仲良くさせてもらっている飯野さん。楽しい会をいろいろ開いていらっしゃるが少し前に、

The green table 「インドの旅アウトプット時間」

という会にお邪魔をさせていただいた。
ありがたくゲスト扱いをいただいて、恐縮。


おじゃますると、皆さんの持ち寄ったものを飯野さんが見事に盛りつけをしていて大変に美しい。
なるほど、盛りつけデザイナーの肩書き、面目躍如。
知らぬ間に飯野さん、パワーアップしていてしゃべりもそつなく、上手になっている。
そりゃそうだね、自由大学の講座、もう10期目だものね。すっかり先生らしくなっていて。
えらくなっちゃって困っちゃう。

いろいろな方とおしゃべりも出来て大変満足。
楽しい時間になりました。

2014年3月31日月曜日

ジェット☆ダイスケ氏と剣術勝負をしてきた話。サムライボーグで斬撃勝負。

先日、ジェット☆ダイスケ氏から連絡があって、ちょっとおもちゃで遊ばないか、と誘われた。根っからお子様の傾向の強いわたし。一も二もなく彼のところに駆けつけたのだが、なかなか面白いものが待っていた。
どうやら発売前の製品の様子。こういうもののレビューの評判が高い彼ならではだ。

これ、タカラトミーの「サムライボーグ」というそそる名前。

いったいどんなものなのか、と聞くと、以前、これの前のモデルがあったそうで、ああ、そういえば彼のYouTubeチャンネルで拳で殴り合う武闘派おもちゃの動画をみた記憶があった。たしか名前がバトルボーグ。そうか、後継機が出たのだね。
先代モデルはボクシングスタイル、そしてパワーアップしたこれは刀剣での切り合いをするという。


(ジェット☆ダイスケさんのYouTubeチャンネルより)

彼から簡単なレクチャーを受けた。
モーションセンサーが内蔵された刀の柄(つか)を模したコントローラー、その名も「斬撃コントローラー」で操作するようだ。やってみるとなるほど、簡単。直感的に操作が出来る。刀を振り下ろす反動での回転と小刻みに前へ動く短い前進、それを組み合わせて動き回る。乗り物型のラジコンなどよりも移動はまったくスムースではないのだが、それがかえって狭いリングで面白さを出しているのじゃないかな、と感じる。

彼と戦ってみたのだが、これが思わず熱中する面白さ。実ははじめはなんだかなあ、面白いのなあ、と半信半疑だったのだが、さにあらず。
一度操縦してみると一気に燃え上がった。やはり相手があって対戦する、というのは気持ちが盛り上がる。それどころかモーションセンサーを組み込んだコントローラーでの操作、戦いは数試合で汗をかくほど。
振り下ろす斬撃コントローラー、鳴り響く必殺剣技の発動音!思わず声をあげながら振り下ろす剣!とまあ、いい歳をしてきゃっきゃいいながら楽しんでしまったという次第。

ひと汗かいて思ったのだが、これ、お子さんももちろん楽しいだろうが、わたし、おじさんが相当楽しかったのだ。居酒屋、バーなどにおいて遊んだら相当面白いと思う。飲食店にそういうプロモーションをかけることも出来るかもしれない。飲み物も捗が行くだろうし盛り上がること請け合いだ。
4種のサムライボーグはそれぞれ「ランザン」「エンザン」「ヤミカゲ」「ゲッコウ」と名付けられている。練習用の竹斬りができるターゲットもついてい手抜かりがない。

スペシャルサイトを見て思わずにやりとしてしまったのがサイトのトップの左上にサムライボーグのデザインロゴがあったのだがその上に小さく「Omnibot」の表記。
オムニボットは1985年にトミーが発売したプログラム動作可能な大型ホビーロボット。カセットテープデッキを内蔵してリモートコントローラーで動作させた通りの動きを記憶、トレースが出来るという当時としては画期的なトイロボットで価格が5万円もする凄いものだった。飲み物等を運ぶトレーが付属していたりと、どこか江戸時代のからくり人形「茶運び人形」を思わせた。

shunichi2012yt様のYouTubeチャンネルより)

その後もオムニボットの名義でロボットおもちゃを脈々と続けてきたトミー。タカラトミーになってもその血脈は受け継がれたようで、大変にうれしく思った。実はトミーはコンピューターの「ぴゅう太」ロボットの「オムニボット」を擁するテックトイの会社でもあるのだ。いろいろな会社がロボットを手がける時代になったが、もしかするとタカラトミー、ロボット産業の一翼を担う可能性有りや、など楽しい想像を膨らませてしまう。

2014年3月28日金曜日

深夜の旧街道沿いのコンビニエンスストア。



深夜の国道20号。小雨、霧。

しばらく走る度にセブンイレブンが亡霊のように現れては消える。その定期的な出現と霧は無限のループに落ちてしまったような感覚だ。
あの一つ一つのセブンイレブンの店の中すべてでタイマーズの、忌野清志郎の声でデイドリームビリーバーが歌われていると思うと何か悪夢をみているようだ。

なぜわざわざ確信犯のようにタイマーズを使ったのか、といつでも思う。
悪意を感じるんだよ。SFでよくあるやつ。

2014年3月27日木曜日

GoProのバルクパーツ。SIMスロットにアクセス可能なネイキッドフレーム。

AmazonでGoProの関連を検索していた。ネイキッドフレームや外部からの音声入力用のケーブルなどが欲しくて探していたのだ。検索の中で、GoProの純正品である多くのパーツの中に、どうも機械翻訳であろう、という謎めいた日本語の商品名のパーツが幾つか見つかった。さらに検索を続け、どうやら「移動プロ」のワードでヒットするJMTという会社(大陸)の製品にさがしているものが多くあるのがわかってきた。価格はバカ安。いかにも信用できない。が、そのとんでもなく安い価格はイタズラ心が動いてしまう価格でもあった。要するに失敗しても笑える範囲の値段だったのだ。そこで腹を決めて、注文をしてみることにした、、、




なんてことをやってはや半年ほど。
一瞬盛り上がったおもしろGoProパーツやのJMT。なんだかAmazonを見ると仕入れをがさっとやって売り切りご免、今は抜け殻、みたいな状態。ほぼ動いていない感じがある。
気を取り直してほしいものを探すと、果たしてまたお安いバルク品を発見した。実はそのJMTというところで買った非純正品のGoProHERO3用のネイキッドフレーム、大して使わなかったのに、折れてしまった。元々のネイキッドフレームの作りが素材の柔軟性に頼った装着方法であったので折れる日は来るだろう、とタカをくくっていたが、早々に折れてしまった。





慌ててAmazonでまたも検索。純正品行こうか、と思ったその時に目にしたのがこれ。
なにがツボだったかと言うと、これ、純正品にも折ってしまった方にもない機能があったのだ。
前記の2つは撮影中、バックパネルにアクセスして素早くバッテリーを交換できる。それとサイドの穴からmini USBポートにもアクセス可能。音声のラインをとったり給電をしたりが可能だ。が、実は開口部が小さくプラグ形状によっては差し込みがかなわないことがある。実際私が使おうとしたmini USB to 音声用ミニプラグが刺さらなかった。裸にしてしまうとマウントのしようがないGoProには致命的である。
ところがこの弱点をうまくクリアしてプラスアルファまであるのが今回購入したネイキッドフレーム。サイドの開口部がかなり大きい。楽々プラグが差し込める。その上ほかの製品では塞がってしまっていmicroSDのポートにもアクセスができる。つまりこれでマウント固定のままSDの差し替え、バッテリー交換、給電等を併用して長時間撮影が可能になったのだ。これはうれしい。
一通りの解決が出来るこのネイキッドフレーム、2000円を少し切るお値段。試す価値は多いにある。

2014年3月22日土曜日

コンバース


オレンジ色も、ゆるいデザインも気に入っているのだけれど、履くと小指が当たる靴。
その度に下駄箱の奥にしまいこむのだがそれを忘れた頃、たまに思い出して履く。
そしてまた小指を痛めてしまう。

そうやって20年ほど付き合った。今日、捨てよう。

2014年3月15日土曜日

100円ショップでiPhone三脚固定。ダイソー スマートフォンスタンド。

100円ショップのダイソーではスマートフォンに使える雑貨がいろいろ見つかる。驚くほど実用的なものも見つかることがあって、見のがせないのだ。



iPhoneで動画撮影ができるようになって既に5年も経った。画質、性能ともに年々向上し、今やビデオカメラの代替えもできるのではないか、と言う所までやってきた。

いかんせん携帯電話であるために撮影に適した形状ではない。手持ちであるなら何ら問題はないが一カ所に固定して撮影、というスタイルには、弱い。



以前よりいろいろなスマートフォンの固定と三脚穴の提供ができるクランプ、ホルダーはあったが、いざという時に持っていなかったり専門店に行かなければ手に入らない難点は残ったままだった。

そこにこれ、である。全国津々浦々にある100円ショップで三脚とホルダーを手に入れられるようになってしまったのだ。すごい時代になったものだ。それだけスマートフォンの性能があがり、普及もしたのだという証明か。



とにかくありがたい。








2014年3月12日水曜日

cheero Power Plus2 mini 金色のモバイルバッテリー、iPhone2.5回充電。

cheero Power Plus2 miniを日常で使うモバイルバッテリーのレギュラーにした。



以前使っていた、日々の行動中に鞄に入れておくためのバッテリー、cheero Power Bank、10000mAhのものはiPhone5回分の安心があったが、いかんせん重かった。その半分ほどの体積と6割ほどのパワー。それと緊急用のLEDライト。これにして荷物と気分が軽くなった。これ、いいじゃないか。

cheero ブランドの製品、かっこ良くてお安くて、いいんじゃないだろうか。








2014年3月6日木曜日

CP+2014 GIZMONブース/ジェット☆ダイスケ・イイヅカアツシ(+ 再生リスト)

日本最大のカメラショー「CP+」2014年の2月に開催されました。

カメラ型iPhoneケースでおなじみのgizmonさんのブースでジェット☆ダイスケさんと共に登壇。1時間近くgizmon製品についてしゃべりました。

http://gizmon.com/ja/event_cpplus2014/



非常に楽しい時間になりました。
ご来場いただいた皆様、どうもありがとうございました。

gizmonさんの公式動画チャンネルに全編が公開されています。
長いですがご覧ください。

gizmon:http://gizmon.com/ja/




2014年3月1日土曜日

シャッターホリックでカメラ雑貨のお買い物。買い物体験の善し悪し。

買い物というのはものそのもの自体、というより体験で楽しさやで満足度や価値が変わってくると思う。

例えば私がここまでiPhoneを買いかえ、使い続けているのはソフトバンクの窓口にいた美女の魅力ではなく、アップルストア銀座での男性担当がくれた体験、手元の新しいiPhoneの設定時に電源を入れて「ファーストタッチをあなたの手で」と促してくれたことが理由の主な部分だ。

シャッターホリック、というカメラ雑貨の店が愛知県岡崎市にある。そこのECサイトがカメラ雑貨ドットコムだ。

シャッターホリック  http://hendigi.com
カメラ雑貨ドットコム http://shop.camerazakka.com

商品セレクトのセンス、運営者の趣味や情熱、カメラ雑貨の今を上手にとらえるセンス。それらが上手にバランスしていてそのサイトの商品にどうにも反応してしまうのだ。

実店舗ならそういうものを伝えやすい。何しろ体験だ。現地に行ってその場所で見て、触れて、話を聞いて、ができる。が、ECサイトではそうはいかない。この隙間を埋めるのが店主のパーソナリティーなのではないかと思う。それを上手にWebの上で出せているか、だ。


たまたま私の友人のこの店の店主はトイカメラや雑貨にかける情熱が大きく熱いのだ。それにくわえて彼のパーソナリティ、人となりがとてもいい。私は友人なのでそれを知っているが、初めて彼のサイトを訪れる人は商品だけでまず見るであろう。しかしそれでは終わらないものがある。商品の説明文や写真、そういうものに愛があるのだ。その商材自体を彼が愛していることが伝わるのだ。

別の友人でインドの古典音楽を取材して歩く井生明という男がいる。インド古典音楽、からきしわからない私なのだがそういう人間を前にして、彼は熱く熱く、その素晴らしい世界を説いていく。内容はわからないのだが、だんだんとその情熱、ぐいぐい押してくる熱い気持ちと彼自身の興奮に飲み込まれてここまでは興味がなかったインド古典音楽なぞ「ちょっとためしに聴いてみるか」という気持ちになる。その情熱に巻き込まれる、という感じだ。

情熱に巻き込まれる、はキーワードかもしれない。本当に好きなものを楽しそうに紹介しているECサイトはAmazonにはない生き生きとした輝きがある。「Amazonで買った」と淡々と語るのと「シャッターホリックのカメラ雑貨ドットコムで買ったんだ!」と声大きくいうのではまるで価値が違うのではないのじゃないか、と思う。







2014年2月20日木曜日

100円のiPhoneケースと無名性という性能。

なぜ私はiPhoneのケースに無名性を求めるのか、というお話。

撮られる相手にプレッシャーを与えないような無名性。その無名性を使うからこその誠実さ、そういうものが大事なのではないか、と思っている。写真、動画に限らずだ。



盗撮、という言葉は非常に貧しい言葉だ。その言葉を使っている人の中に既にそれをする、しないかかわらず、その存在があるということが透けて見え、それが貧しさに見える。

なんというか、空しくなる。





2014年2月15日土曜日

Aladdin BLUE FLAME Stove / アラジンのストーブ。

アラジンのブルーフレームというストーブ。もう30年ほど持っている。
たしか、中野の救世軍のバザーで3000円ほどで買った記憶がある。

石油ストーブ、特に古いものはコレクターがいたりして楽しい趣味のジャンルなのだがこのアラジンはその中でも王道。ただし私は実用品として購入、今に至る。

この日はメンテナンスとして焼けて短くなった芯を燃焼筒を取り外して繰り出す作業を行った。上手にやらないと油まみれになるが、内部構造を見ながら清掃をして芯の繰り出し、というのはちょっとしたお楽しみだ。やっていて楽しさを感じる。

シリコンチップではなくて、規模は小さくても歯車や金具が絡まり合って動くものというのはやはりどうにもいじっていると楽しいものだ。




そういう心情的な楽しさと同時にこのストーブを持ち続けることは生活インフラの確保、という意味で価値があると思っている。

先の大震災、それと5年前に私の住む家の前を流れる川の氾濫で停電や断水等を経験した。自宅にはガスファンヒーター、電気ストーブ、エアコンがあったがガスの停止はないものの(ガスメーターでの自動切断はあったが復帰させるのは容易だった)電気がこなくては暖房はかなわぬ。外からインフラを引くガスコンロでの調理もなにかあったらまた同じだ。エアコンでの暖房も無理で風呂にも入れない状況、唯一このアラジンブルーフレームは何があっても健在、灯油さえ確保できれば(夏でも買い置きをしてある)調理と暖房、簡易な照明としても使うことができる。廃油ストーブのノウハウがあればそういう使い方までできる懐の深いストーブだ。

オール家電の家など、心配でたまらない。
スタンドアロンで稼働する生活のためのインフラを考えるのは今だから、ではなくいつのときにでも大切なのではないだろうか。








2014年2月10日月曜日

GoPro回転グリップ。インタビューカムという新ジャンル。

「株式会社ヒマナイヌ」という変わった名前の会社がある。
ライブメディアカンパニーを標榜する、ストリーミング環境を現場で提供、配信をする会社、という認識がある。が、そんな枠ではまったく収まらない活動も行っているというのがいろいろなところから聞こえてくる。

この面白いデバイス。デバイス、というよりもアイスディッシャーそのまんまなのだがまったくもってアイディアものなのだ。





アイスディッシャーはキッチン用品。バスキンロビンスサーティーワンの店頭で見たことがあるだろう。アイスクリームをすくう時の丸いカップ型のスプーンだ。手元にギミックがあって先端の半球上のカップの中をアイスをカップから引き離すための羽根が仕込まれていて手元で握るとギアが働いてカップの中の羽根がカップ内側を削ぐように180度回る。

それを見てはたと気づいた川井さん。GoProを使ったインタビューカムを考えていたところ「これじゃん!」とひらめいた。

先端のディッシャー部を取り去りギアの駆動部を残して代わりに3DプリンタでプリントしたGoProを取り付けるベースを装着。実に面白いものが出来上がった。

ひょんなきっかけで「使ってみてよ!」と渡されたこれ。めっぽう面白い。

主導ではあるが主導だけに大変に素早い回転ができてなるほど、立派なインタビューカムであるなあ、と思い知った。かちゃかちゃという音の問題はあるが、どういう現場でどのように使うか、という運用でクリアできそうな気もするし、とにかく被写体になる人の気を引くのでそこがとても面白い。

これはプロトタイプ。
カッコいい量産型が着々と完成に近づいているそうだ。
完成品を見る日が待ち遠しい。




<追記>

これはやはり可動しているところを見ないとわかりづらい。ぜひ動画を見てほしい。








2014年2月5日水曜日

動画のこと。

現在YouTubeに1200本をすこし越えるくらいの動画を置いてある。
その数が多いのかそうではないのか、などは特に気にならない。pvも同じくそれほど気にならない。

今すぐ編集して今すぐアップロード、拡散を一生懸命やって、というような動画を作っていない。と思う。
勢いは大事だ。撮影対象に対する情熱とかそういう熱量。それはあるとおもっている。
が、それと即時性とはわたしの場合はリンクしていないだろう。
だからわたしはYouTuberではないし、だからYouTubeが軸足ではない。みればわかると思う。
そのスタンスが自分で気に入ってやってる。

2014年1月27日月曜日

サクラカラー SAKURA PACK 100Xと136フィルムカートリッジ。

私は小学生の頃にカメラを父から買い与えられていた。当時としてはかなり早い時期での自分の愛機入手であると思う。まだまだカメラを持っている子供は少なかった。父が写真を撮るのが好きだったから、カメラが好きだったからかもしれない。きっとそうだろう。かわいらしい、面白いカメラだった。いまでも父が実家で大切にとっておいてくれているはずだ。

今更カメラがどうの、と父と話すのが何となく照れくさく、自分でいろいろ調べると、件のカメラ、どうやらサクラカラーの「SAKURA PACK 100X」というモデルのようだ。調べた写真を見ると、まさに子供時代の自分の愛機であった。
父は私に、と言って買ってくれたのだが、管理はほとんど父が行った。カメラを使いたいタイミングや修学旅行等のときに、父の大事なものが詰まった引き出しの中から恭しく取り出され、私に手渡される。私と私の初めての愛機とはちょっと不思議な距離感があった。


が、しかし。「SAKURA PACK 100X」の写真を眺めると「やはりカメラというものは、、、」と思ってしまう、あれがやってきた。あの感覚だ。
以前のエントリーでも書いたのだが、しばらくの間手にしていた機械というのは、その感触を忘れないものだ。ほんとうに、40年近く経っているのだが、SAKURA PACK 100Xの写真を見ただけで、そのカメラが手元にあるわけではないにもかかわらず、巻き上げレバーのかりかりというラチェットギアの感触やシャッターを押し込んだ時の安っぽいシャッター音、裏蓋のプラスチックの柔らかさ。すべてありありとよみがえってくる。そういう機械との関わりや記憶、まったく面白くて仕方がない。

136フィルムカートリッジという不思議な規格のカートリッジ、というよりカセット的なフィルムを使うカメラだ。ちょうど110フィルムを2段、重ねたような形をしている。当然のように大昔のフォーマットなわけで入手は不可能。が、カートリッジのガワを手に入れて分解、35mmフィルムを詰め替えると現代でも使えるそうだ。そんなことを調べたら俄然やる気が出てきた。
子供時代にそのカメラで撮影した写真を実家で探し出し、136フィルムカートリッジの詰め替えをして、その子供の頃の写真を撮った場所にいま行って、同じ角度で写真を撮ってみたい。そういう作品を展示などしてみたいな、と妄想している。
できれば父が生きているうちに実現したい。しなければな。
父は私に写真を仕込んだ張本人なのだから。


追記
そうそう、撮影された写真は正方形のフォーマットとなる。
俄然使ってみたくなった。

2014年1月22日水曜日

自分を意識して空腹に追い込む。

一人でいるととてもだらしなくなる時がある。今日もそんな感じだった。
部屋で仕事をやっているのだがどうもノリきれず、ダラダラとして。気力がどうも上がってこず、メシも食ってない。
そうやって朝起きて、昼をすぎ、夕方近くになった。猛烈に腹が減った。しかし部屋を出る気力がない。こういう時に限って冷蔵庫は空っぽだ。めまいを感じるような空腹。そろそろ本当に動けなくなる。こりゃマズイ。その前にジャケットを羽織ってガレージにいかねば。
そう思って立ち上がった瞬間に、巻き寿司があるのを思い出した。声が出てしまった。きのう、買っておいて夜遅くに晩酌のお供にしようとして忘れていた。スーパーマーケットのタイムセールで買ったネギトロ巻が8巻ほど。ひどく寒かったのとメシが硬くなるのがイヤで冷蔵庫にしまわず暖のない台所においていて忘れた。とはいえあまり色が良くない。しかし、何の躊躇もなかった。かぶりついた。うまい。本当に染みるようにうまい。タイムセールで250円のなんでもない巻き寿司だ。が、米粒のひとつひとつの味が舌を通って脳髄にこれでもか、とうまい信号を送ってくる。

そんな食事を済ませてはたと気がついた。
空腹を忘れていたんじゃないのか。

都心に住んでおり、コンビニ、スーパー、チェーンのメシや、何の不足もない日々だ。時間も何も関係なく食べたいものが手に入る。面倒なら宅配もある。コンビニでスナックかなんかを買い置きしておいてもいい。そうやって空腹を忘れていた。空腹の時の危機感や精神状態、体の変調。そういうものに気がついたり警戒警報を発したりする感覚は、本来当たり前に持っていなければいけないものだ。人間も動物、いきものだからだ。しかし日本に関しては、そういうものを感じにくい場所になっているようだ。

空腹で感覚が尖ってきたりするのが面白かった。精神状態や行動も興味深かった。自分自身が面白い観察対象になり得ると思った。そしてそういう状態のあとに食べるものの至福といったらなかったのだ。

今年はあえての空腹、という状態を色々なタイミングで作ってみて、感じ方や変化などをいろいろ探ってみたいと思った。

2014年1月11日土曜日

年末、六本木で偶然YouTubeクリエイターのカズちゃんと会った件。


12月に入り、クリスマスの飾りが煌びやかな六本木、六本木ヒルズそば。

ライブをのぞいての帰り道、声をかけられた。おや、と振り向くとYouTubeで活躍する動画クリエイターのカズちゃんだった。あれれ、なんだか福井に本拠地を持っているのに気がつくと東京にいるよねえ。いつでも東京界隈にいるイメージ。

なにか個人作品のロケハンだったらしい。相変わらずの笑顔と人を和ませるやんわりな雰囲気。好きだなあ。

2014年1月5日日曜日

電車。

なんとなく、撮った。
電車の中に人が誰もいなかったから。

GoProを地べたに置いたりして撮った。
撮ることが、楽しかった。




2014年1月3日金曜日

モノクロ写真 天ぷらや





町歩きをよくする。ぶらぶらと、当てもなく歩くのは大変楽しい。特に時間制限なし、締め切りなし、のタイミングで歩くと楽しさ倍増だ。時間をかけて、キョロキョロと町を見て歩く。東京、まだまだ捨てたものではない。素晴らしい光景や建物に出会うことがある。


寺だったり古い独特の様式のビルだったり。この日は立派な天ぷらやを見つけた。浅草、千束の裏手を歩き始めてずいぶん歩いていると見つけた。
どうにも魅力的で、モノクロにしてしまうのは簡単だしいつも通りなのではあるが、抗い難い。素晴らしい。



こういう建物を動画で上手に表現できるといいな、と考えている。

勉強と実践をせねば。